Cinema & Book Review

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』  チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著      くぼたのぞみ訳 (河出書房 2017)

 

 本作は、ナイジェリアの作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが201212月に*TED x Eustonでのトークに加筆したもので、「フェミニズムについて必要不可欠な話し合いが始まってほしいとの思いからはなすことにした。」という前書きから始まります。

 

 彼女は14歳のとき、親友であり、兄貴みたいな存在のオマコロから「おまえってフェミニストだな」と言われ、「フェミニスト」という言葉に出会います。そして、2003年長編小説『パープル・ハイビスカス』を発表した後、あるジャーナリストから忠告を受けます。「あなたの小説はフェミニスト系とみんながいっているけど、絶対に自分のことをフェミニストといわないほうがいい…」と。そこで、「フェミニスト」という語がネガティブな重荷を背負わされていることに気づきます。

 

 トークは彼女自身に起きたエピソードが語られます。子ども時代の忘れられないこと、テストで最高得点を採った彼女が学級委員になるはずが、2位の男子が委員になった出来事に始まり、大人になってからもホテルやレストランで、アメリカの友人の職場で、子育ての中で、女性という理由で無視され、誤解され、不愉快な思いをさせられている現実に目を向け、改善を訴えます。

 

子どもたちを育てる時にジェンダーよりも、その子の能力や才能、興味や関心に焦点を合わせたらと提案しています。

 

「ジェンダーの問題は、私たちがありのままの自分を認めるのでなく、こうある『べき』だと規定するところにあるのだから、自由で、本当の自分でいられるように、考えていくこと、話し合っていくことが必要である」と。そして「私は自分が成長する過程で内面化してしまったジェンダー絡みの学習について、いま学びなおしているところです。」と。その姿勢に共感させられます。

 

私たちは世界中の隅々まで張り巡らされたジェンダーシステム、今もせっせと開発されているだろうシステムに対して、学ぶこと、考えること、話し合うことを常に意識し、繰り返していくことが必要であると強く思いました。

 

そして彼女は結びます、『わたし自身のフェミニストの定義は、男性であれ女性であれ、「そう、ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね、もっと良くしなきゃ」という人です。』と。

 

今日だって、明日だって、ジェンダーの問題に気づき改善を考え、言葉にして、声に出して、文字にして伝えていきたいと改めて実感できる一冊です。

 

 

 

*TEDTechnology Entertainment Designの略称。さまざまな分野で活躍する人を招き、アイディアなどを語ってもらうイベントを開くアメリカの非営利団体。

 

『家族のゆくえは金しだい』 信田さよ子著(春秋社2016)

 

「家族のゆくえは金しだい」…まぁ、なんて直接的なタイトルだろう!

 

 やっぱり金か…。金に縁薄いと嘆く私は、一瞬たじろいでしまった。なぜなら私たちは昔から、「幸せはお金で買えない」とか「金で愛情は買えない」などと聞いて育ってきている。多くのテレビドラマや映画も、問題や苦難を「家族の絆」で力合わせて乗り越え、最後に幸せをつかんだり、理解し合うという場面を見せて終わるものが多い。

 

 ところが、本書の黄色の帯に、『〈愛と絆〉だけでは乗りきれません。持てる世代の親と、無職の子ども。…リアルな事例から現代日本を(略)』『出すべきか出さざるべきかそれが問題だ』『親子、夫婦関係を良好にするためにも、今ある関係から一歩踏み出すためにも、お金ほど大きな役割を果たすものはない』とあった。興味深い思いで読み始めた。

 

 著者は、母娘間にひそむ母の支配性や、その娘の苦しみについて多く手がけてきているが、この本では、あえて「家族とお金」をテーマにしている。家族の中の個々の問題を事例として示しながら、家族内の経済問題が多くの社会問題と関係していることを明確に捉えているので、フェミニズム視点から外せない。母娘問題、摂食障害、金を持つ世代と無職の子ども、依存症者を抱える家族、引きこもり、経済的DVなど、現状の特徴を捉えながら、そんな関係の中で「お金」をどう操作するのが良いのか、どう駆使するかを明らかにしていく。

 

 たとえば、現在は、親世代(戦後生まれ世代)のほうがはるかにお金を持っている。今の子ども世代にとっては、就労し続けることすら非常に厳しく、非正規雇用や契約社員では、とうてい親の年収を超えることはないだろう。ましてや将来、親の面倒をみたり親孝行をするのは相当難しい。すると、なかなか親から離れられず、親に依存するケースも増えている。さらには、「私(俺)の人生をだめにした」と親を責めあげ、暴力をふるい、金銭を要求するケースになると、親は心配になり、不安と恐怖感で相談される場面も実際、多々ある。

 

 親は子に自立してほしいと望む、できれば経済的自立を。引きこもりなどの具体例を出しながら、当事者と家族の中で、引きこもる子どもとどう距離をとるのか、金銭はどう渡したら良いのか、渡す金銭についてどうルール付けるかなど、話し合い方法も含めて信田氏流の具体的な展開もあって、今後の道筋を立てるのにとても役立つ。

 

 最近のニュースでは、日々、振り込め詐欺事件を報道している。少し前の「オレオレ詐欺」「母さん助けて詐欺」など、親や祖父母世代の家族愛を逆手に、詐欺師たちは、巧みに搾取していく。親たちは「出すべきか、出さざるべきか」と考える暇なくまんまと被害にあってしまっている。なんとも皮肉で悔しい話で腹が立ってしかたがない。 

 

 「無償の愛」や「母性愛」、「家族幻想」から脱却して、家族の適度な距離を確認しながら、当事者本人が望む人生を応援したいと強く思った一冊であった。(2017年4月)

 

介護をめぐる本・映画

 

 特集に合わせて、介護と家族についての本や映像に触れてみようと軽い気持ちでネット検索すると…出るわ、出るわ。『老いた親とは離れなさい』(坂岡洋子、朝日新聞出版)、『もう親を捨てるしかない 介護・葬式・遺産はいらない』(島田裕巳、幻冬舎新書)、『夫に死んでほしい妻たち』(小林美希、朝日新書)、『男という名の絶望 夫・父・息子』(奥田祥子、幻冬舎新書)など、タイトルを追うだけでこの社会問題の広さ・深さに圧倒される。

 

とりあえず著者に信頼性を感じる①『変わる家族と介護』春日キスヨ、講談社現代新書2010と、すぐ読めそうな②『ルポ 介護独身』(山村基毅、新潮新書2014、実用できそうな③『介護離職しない、させない』(和氣美枝、毎日新聞出版2016を入手。少し古いので見送ったが、『正々堂々がんばらない介護』(野原すみれ、海と月社)も気が軽くなるタイトルで、わが身に降りかかったら、これを読もう。

 

 いまや65歳以上は全人口の27.3%(総務省2016.9.15)。女性ではすでに30%を超え、3人に1人近くが高齢者となった。また、2025年には高齢者の5人に1人が認知症、その数700万人超と推計されているそうだ(厚労省)。元気に働くシニアがいる一方で、認知症でなくても介護が必要な人は75歳以上で3割を超す。この現実を抱えながら、平均世帯人数は2.49人(2014)。夫婦と子どもの世帯28.8%、単独27.1%、夫婦のみ23.3%。三世代は6.9%。家族で介護役、稼ぎ役などと分担できるメンバーはもはやいないのがフツーなのだ。

 

は、豊富な聞き取り事例とデータで、介護をめぐる現実が大きく変化してきたことが確認できる。「嫁」がおもな介護者である65歳以上は、男性わずか1.7%、女性33.9%という数字は意外に少ない。男性は子が5割、妻が4割、女性も夫の介護を受ける人が4割に迫り、男性も、妻や親の介護を担う人が増えている。関係や意識が変わっているのに、現実以上に当てにされてきた家族という「セーフティネット」。その上、一定の経済的安定を得て持ち家率も高い今の高齢者の陰で見えにくくされてきた次世代-不況下で未婚者も増え続ける将来の高齢者-(自分も含めて)の介護を、個人や家族で責任をもつことなど到底無理だろう。読むと、社会全体への指摘が浮かんでくる。

 

のルポは、独身の子が親を看るシングル介護を担う人たちを取材。介護を抱えたがゆえにしだいに孤立し結婚をあきらめ、歳を重ねていく「介護独身」とも呼ぶべき状況の人たちが増えている。

 

は、若くしてシングル介護・離職を経験した著者が自らの経験を生かして介護者支援の活動に乗り出した成果の1冊。「介護が始まったからといって、会社を辞める必要など、絶対にありません。…自分の人生を最優先で考えて構わない。介護のために、自分の仕事も人生もあきらめる必要などないと私は考えています」ときっぱり言い切ってくれるところがうれしい。「介護は情報戦」、「介護はたくさんのことを与えてくれ」「介護者も成長していく」といった指南も役に立ちそう。

しかし、介護というとどうしても大きな荷物を背負わされてしまうマイナスイメージが大きい。そうなると自分が介護される側に立ったとき、申し訳なさややるせなさでいっぱいになるような気がして切ない。できれば、楽しい老後、気楽な晩年を送りたいのは誰もの願いだろう。慰みはないかとレンタルDVDを借りて、『ペコロスの母に会いに行く』(監督・森崎東)『折り梅』(監督・松井久子)を観た。どちらもある意味理想的に過ぎるかもしれないが、認知症の母をここまで生き抜いた1人の女性として、その人生を尊重し理解しようとする者のまなざしで描かれていた。特に『折り梅』は嫁姑の介護問題を描きながら、むしろシスターズフッドを醸しだす作品でおすすめ。【2016年10月)

 

 

 

 

 

Book Review

映画「キャロル」と「リリーのすべて」に描かれた多様な性と女性たちの選択

 

性の多様性をテーマにした二つの映画『キャロル』(2015)と『リリーのすべて』(2015)がほぼ同時期に公開されたので見比べてみた。LGBT1つのカテゴリーで語られることが多いが、同性愛と性別違和それぞれの当事者の生きづらさは大きく異なっていることが分かった。『キャロル』は『太陽がいっぱい』などで知られる作家パトリシア・ハイスミスの小説『The Price of Salt(1952)をもとにした作品である。1950年代ニューヨークで、女性2人が家族や世間の非難を浴びながらも愛を育みともに歩む道のりが描かれる。2人が闘うのは、レズビアンという理由で人権が侵害されてしまうホモフォビア社会である。『リリーのすべて』は実話をもとにしており、1930年代のコペンハーゲンとパリが舞台である。妻を愛していながらも性別違和で苦しみ、世界初の性別適合手術を受ける男性画家の“治療”の道のりが描かれる。彼が闘うのは、当時は性的倒錯や統合失調症の精神疾患と考えられていた“病”である。

 

 ここからは、それぞれの映画で描かれる女性たちの性について見ていきたい。『キャロル』では、離婚裁判中で裕福で優雅なキャロル(ケイト・ブランシェット)とデパート勤めのテレーズ(ルーニー・マーラ)は客と店員として出会い、惹かれ合い肉体関係を結ぶ。若いく美しいテレーズを誘い、高価なプレゼントを渡し、肉体を賛美するやり方は、まるで若い娘に溺れる中年男性みたいな姿でありとてもエロティックに描かれていて観ていた私は汗ばむほどだった。女性がもつ能動的で強い性のエネルギーがとても印象的だった。しかし、キャロルはその同性愛で一人娘の親権を巡る夫との争いで不利な立場に追いやられる。娘と再び一緒に暮らすためには離婚を断念して夫の元に帰るしかないのだが、苦悩の末、キャロルは娘を諦め恋人テレーズと共に暮らすこととを選ぶ。キャロルは妻、母ではなく性的な女性として生きるのである。

 

『リリーのすべて』は、今から80年以上も前に世界で初めて性別適合手術を受けたデンマーク人画家リリー・エルベの実話に基づいている。1930年、デンマーク。風景画家のアイナー・ヴェイナー(エディ・レッドメイン)は、肖像画家の妻ゲルダ(アリシア・ヴィキャンデル)と性的にも精神的にも結ばれた関係で妊娠を楽しみに暮らしていた。しかし、アイナーは女装がきっかけで秘めていた本来の自分“リリー”として生きる欲望が抑えられなくなり、性別適合手術に踏み切る。ゲルダは葛藤するが、リリーの希望を叶えるため力を尽くす。妻であること、母になることを諦めて、リリーを支え、晴れて膣をもったリリーが術後息を引き取るまで側にいるのだ。

性に忠実に行動することには勇気が必要であり、さまざまな困難を乗り越えなくてはならないというメッセージを、この春の二つの映画から受け取ったように思う。性に忠実であることは当たり前の権利なのに、その性が新しいものだったり珍しいものだったりすると社会の秩序を乱すとレッテルを貼ったり、病人として扱ったりしてきた歴史がある。そしてそれは今でも続いていると言わざるを得ない。どんどんと新しい性のあり方が報告される今日、妻、母、夫、父…といった従来の性別役割で説明しきれない多様な生き方を選ぶ人が増えている。少数派の人は社会に居場所がなくて自分を殺して苦しんでいたり、排除されたりしている。“いかに生きるか”という課題にクライエントと取り組むカウンセラーとして、性に正面から向き合っていきたい。

(2016年4月)

 

 

「婦人保護施設と売春・貧困・DV問題―女性支援の変遷と新たな展開―」 須藤八千代 宮本節子(2013年 明石書店)

 

 自治体などの女性相談で、心身が危険に曝されている女性とシェルターの利用など福祉の枠での保護という選択肢を検討することは少なくない。しかし実際に保護につながる女性は少ない。本書では、“空きがある”のに女性が入れない婦人保護施設と根拠法である売春防止法が抱える性暴力被害者排除という形のハラスメント問題について、施設の運営者、支援員、福祉領域の研究者が様々な立場から論じている。

 

 まず、第1章では、婦人保護施設は「売春防止法(以下「売防法」)」(1956)が根拠法だが、2008年現在在所率は40.9%(利用者569人)と低く、婦人保護施設としての存在意義が問われる状態であることが問題提起される。性産業での搾取や性暴力、DV被害で生活が立ち行かなくなる女性は決して少なくない中、売防法で“社会の風紀を乱す”と取り締まられた女性とDV防止法で“被害者”とされた女性を同じ“要保護女子”として保護する婦人保護施設が内包する矛盾が指摘される。第2章では、都内5施設の実態調査の結果が報告されている。調査は、売防法の持つ女性差別から脱皮するような実践が今の婦人保護施設には求められていることを明らかにする。第3章では、牧師・深津文雄が1965年に千葉・館山に設立した「かにた婦人の村」の歴史が紹介される。牧師らしくない牧師が“売春婦”の更生に“エゴイスティックな”動機からのめりこんだライフストーリーが紹介される。第4章では、現在都内で婦人保護施設の施設長を務める2人の女性が、前述した婦人保護施設の女性差別に挑戦する姿が描かれる。発足当時の「コントロールしなければならない、仕方のない対象者」という発想による支援への抵抗が明かされる。第5章では、新人の支援員が、支援員と利用者の間のパワーの問題に悩みながら職業アイデンティティを確立していくプロセスが描かれる。第6章は、大阪府立女性支援センターからの現状報告である。中でも指定管理制度の導入という行政の“効率化”による現場の混乱の報告は特に重い。第7章では、最近の女性ホームレスによる婦人保護施設利用の増加について報告されている。性暴力被害や生活困窮で安心・安全な住居がない女性は男性ほど目立たないものの多く、婦人保護施設利用のニーズは潜在的に大きいのに、婦人保護施設は6割が空きという矛盾に迫る。本当に保護を必要とする女性が婦人保護施設に措置されるようシステムを改善するべきとの指摘がなされる。第8章では、開発途上国から“人身取引”でカンボジア、フィリピン、タイ、インドネシア、中国などから連れてこられ強制労働や性的搾取の被害に遭う女性たちの保護が不十分であることを指摘する。日本政府は被害者を本国に送還する形を基本としており、当事者の意向にかかわらず婦人保護施設での保護に至るケースは稀なのである。第9章では、現代の“駆け込み寺”としての婦人保護施設は、規範からの逸脱者の保護という名のもとに社会から排除する機能をもつと指摘する。ここでの“支援”はある規範に従う女性を作る抑圧装置になりかねない。保護という言葉が本来もつ“自由への解放”に向けたシステムの変革が提案される。

 

 暴力に満ちた生活から逃げたい女性たちが安全に暮らせる公的施設はあるのに、多くの女性たちが保護を諦めざるを得ない状況は法律の世界に温存されるハラスメント体質を反映している。FCのカウンセラーは、ジェンダーの視点をもつ有能なソーシャルワーカーと連携して女性たちの支援にあたる必要があると感じた。〈2015年10月〉

 

「『モラル・ハラスメント』のすべてー夫の支配から逃れるための実践ガイド」 本田りえ(臨床心理士)露木肇子(弁護士)熊谷早智子(当事者) (2013年6月 講談社)

 

「これって、モラルハラスメントにあたるでしょうか?」 最近、女性相談の中で尋ねられる事が多くなった。

あるタレント女性が夫からのモラルハラスメントを理由に離婚問題へと、メディアで報道されてから、DVにおける精神的暴力を「モラルハラスメント」という言葉に置き換えてみる事で、被害にあっている女性達が相談しやすくなったという効果に繋がったようだ。

本書の、第1部は【モラルハラスメントの基礎知識】として、モラハラって何? 加害者について、そして、被害者や子どもへの影響など、暴力の被害について「心理サポート編」として書かれている。

モラハラ加害者の特徴的な行動は、計算高く自己中心的、他人の評価をとても気にする、説明なしに無視し続ける、すれ違いざまに捨て台詞を吐く、マイルールを持つ、ダブルバインドで縛り付ける、外ではめっぽう優しい、等、読みやすくまとめられている。

家庭という密室で、夫からの巧妙で執拗ないやがらせが繰り返され、それは支配とコントロールという見えない力関係の中で、被害者は次第に自分らしさを失い、不安定で逃げ場のない精神状態に追い込まれていく。孤立、恐怖の渦の中で無力化される。要因を、夫や加害者の精神的疾患やパーソナリティの問題かもしれない、又、別な問題もあるかもしれないとしている。

フェミカン視点での、社会構造の背景にある「良妻賢母」や「内助の功」などのジェンダーの縛りについては、残念ながら触れられていない。被害者女性は、自身の努力不足から相手を怒らせたと思い込んでしまう事が多く、さらには、親族や回りの人からも理解されない事もあると、ますます自己評価や自尊心が低くなってしまう事が少なくない。そんな場合は、相談現場でのジェンダーを取り入れた心理サポートが、とても大切になってくる。

第2部【モラルハラスメントからの脱出】では、弁護士が、「法的サポート編」として、モラハラから脱出するまでの流れ(別居、調停、離婚)を詳細に説明している。さらに離婚現場のいろいろな疑問をQAにして、難しい法律知識をわかりやすくしている。

自分の行為を矮小化して、正当化するモラハラ加害者から被害者を守る為にも、フェミ視点を含めた丁寧な心理サポートと、わかりやすい法的サポートが連携しているシステム作りが望ましいと、つくづく思いながら読んだ一冊だった。〈2015年10月〉

 

 

 

 

 

 

<正常>を救え アレン・フランシス著 大野裕監修 青木創訳(講談社 2013年発行)

 

 なんとインパクトの強いタイトルだろう。<正常>を何から救うのだろうか?心理臨床の友人から勧められ、手に取った。400余ページのボリュームに抵抗感があったが、日本における認知行動療法の一人者である大野裕の日本語序文と筆者のまえがきに、読みたいと胸躍るものを感じた。

 

 筆者のアレン・フランシスはアメリカ精神医学学会の『精神疾患の診断と統計マニュアル』(DSM)の作成に20年間関わり、1994年に発表された第四版(DSM-4)の作成委員長であった。彼はDSMの落とし穴や改正にまつわるリスクを警戒していたが、2013年に発表されたDSM-5について、その強い危機感を覚えて、この本を出版した。強い意志と情熱をもって書かれている。

 

 彼が本書で意図したことは、まず一つには、DSM-5の影響で過剰な診断をされ、多量な薬を処方される。そのことによる薬への依存、副作用への警鐘である。現にアメリカの人口の66%が処方薬に依存しているという。診断の氾濫は個人の健康、社会の健康も損ないかねないと彼はいう。例えば、まだ認知症でなくとも、ちょっとした物忘れも「軽度認知障がい」と診断名がつき、投薬される恐れがある。また、日常生活の普通の心配事であってもそれが頭から離れなければ、「全般性不安障がい」と診断され、投薬される恐れがある。他にも、児童の向精神薬づけ、過食性障がいなどいくつもの例を挙げている。

 

 その過剰服用の背景にあるもの・・・「製薬企業が医療企業を乗っ取り、患者よりも金儲けを優先して、過剰な診断、過剰な検査、過剰な治療を激化している」と訴えている。

 

 二つ目には「生きている場、避けられない日々の問題には自然の回復力と時間の治癒力によって解決するのが最適」とのメッセージがある。その人のもっている回復力を引き出せるように薬を使っていくべきだと訴えている。一人ひとりがその人らしく生きていくための助けとしての精神科医療のあるべき姿を示そうとしている。「精神医学の最悪と最良」の章では自身の若かりし頃の失敗を事例も挙げながら、正しい診断の必要性と「病気らしきものではなく、本来は正常なものを人々の中に常にさがすべきだ」と強調している。精神科医との十分な話し合い、カウンセリングや認知行動療法などの心理的支援、精神科の診断と治療に対して「賢い消費者」になることなど、総合的な広い視野にたって見据えている。

 

 日本でも近年、ADHD,アスペルガー障がい、適応障がいなどの診断名がよく聞かれる。書店の棚にも関連する書籍が増え、研究会でも耳にすることが多い。日本の医療も薬物中心となっていると聞く。DSM-5は日本にどのような影響を及ぼすのだろうか?

 

 カウンセリングや生活療法的なものが増えれば、薬漬けにならず自分の能力をより発揮できるようになり、自尊心が高まり良循環に向かっていくと精神科医から聞いたことがある。確かにそうだと思う。自分にあった養生、専門家や家族、地域、社会資源など総合的なサポートを通してその人らしい生き方ができていくのは確かだ。

 

 私がこの本で気に入ったことは生き方を問うていることである。希望が感じられた。

 

また、精神科の歴史や時代の流行、現状と未来、その背後にあるものが書かれているので、広い視野をもつことができた。相談現場では、このような背景があるだろうことを踏まえ、より丁寧に対応できるような気がする。<正常>を救え、とはぴったりのタイトルであった。

 

〈2014年10月)                                                                

 

女性アスリートは何を乗り越えてきたのか 読売新聞運動部著 (中公新書ラクレ2013年)

 

 オリンピックのテレビ中継を見ていると、男子と同じ種目の女子の競技が必ずあって、ウン十年前、「女子には過酷すぎる」と女子マラソンのオリンピック種目採用が反対されたなんて、嘘みたいだ。

 

本書はオリンピックに出場するようなレベルの女性アスリートが女性ならではの数々の困難を乗り越え、(困難は今も続いているが)メダル数でも男子を上回るかも、と言う成果を上げている状況を、女子選手へのインタビューをメインに報告している。

 

女性アスリートが抱える困難は、ほんとに大変だ、まず月経がある。激しい練習や体重制限で、長期の無月経やそれに伴う骨粗鬆症が起きたり、月経周期に伴う心身の変化に対応しなくてはならない。一方情報は少なく、婦人科系の病気はカムアウトしにくい。女性の指導者は二割に満たず、練習は辛くて当たり前という考え方の中、専門家に相談できる環境がない。

 

さらに大きなハードルは出産と育児だ。そもそもそれを経て、第一線のアスリートを続けようとする人はごく少数だ。出産による体の変化をスポーツ選手としての体に戻し、その上で競技と育児の両立を図るのはとても難しい。しかしここで語る女性たちは、驚く程前向きだ。ハンデを受け止め、それを前向きのパワーに捉え直している。子どもを持つことで、かえって自分が精神的に強くなったと語る選手が多い。

 

去年大きく報道された女子柔道選手へのパワハラ問題にも一章を当てて経緯を追っている。告発した選手たちやそれをサポートした女性指導者が何度も抗議しているのは、体罰やパワハラは監督やコーチ個人の問題ではなくて、全日本柔道連盟組織全体の体質であることや、さらに異議申し立てをしてもJOCなどその上の組織でうやむやにされてしまったことだ。マスコミが大きく報道して、やっと外部の調査が入り、全柔連の体質が批判され、具体的な処分も行われた。それらを受けて最後は告発した選手たちが「丁寧な調査を行われ、区切りが付けられた」、として「お礼」を発表し、一応の終結となっている。

 

私はとてもスポーツ音痴で、その上スポーツマインドに偏見があり、コーチの怒鳴り声を聞くのも、選手がそれに必ず「はい!ありがとうございます!!」と答えるのも馴染めない。指導者のシゴキが当然で、それに耐える根性があってこそ一流になれるという考えも受けつけられない。でもこれが、スポーツや職人の世界では一般的なことで、その世界の人にとっては、愛情や連帯感の現れと信じられているのも否定できない。少し話はずれるが、私のところにカウンセリングに来た若いDVの夫に、彼の怒鳴り声がどれほど妻を怯えさせるのかわかってもらうのに、とても大変だった体験がある。(妻との関係を修復したいとわざわざカウンセリングに通ってくるのだから、好感の持てる人だったが)彼は自分が学校や職場でそうやって育てられ、それがあたりまえで、むしろ自分が鍛えられてきたと考えていたから。

 

では一方で、女性ではないアスリートは体調がいつも安定していつのだろうか?怪我や体調不良、家族の事情などで試合や練習をチームメイトと同じようにこなせないことをオープンにできているのか?不透明な代表選考や不公平な処遇の理不尽さに怒りが爆発しないのか?こちらは黙ってグッと我慢する、という「男らしさ圧力」が働いていると思う。女性アスリートにとってそれを受け入れるには、心身の負担が男性にも増して大きい。だからこそ本書で扱われる問題が、よりはっきり出てくるのだと思う。

こうして考えてみると、スポーツ界で起きていることは、社会のジェンダー問題とパラレルなのですね。本書を読んで改めて感じた。

(2014年4月) 

 

 

         

ガール 奥田英朗著 (講談社文庫 2009年)

 読んでいて思わずフッと笑ってしまう。そんな等身大の以下の女性5人が描かれている短編小説です。

 

【ストーリー① 武田聖子】管理職になった聖子は、部下への接し方で戸惑う。社内での派閥や女性が上司になったことをやっかみ陰湿な嫌がらせをする部下へ賭けを仕掛ける。そして「女と仕事をするのが嫌なら相撲協会にでも勤めるといいよ。どこへ行っても女はいるからね。女の子じゃない女がね」と、タンカを切る。その台詞で胸がすく思いがした。イザとなったら女は強い。キャリアを積みながら夫との関係や子どもをどうするか…と悩み立ち止まり、でもまた一歩先に進む女性の姿が描かれている。

【ストーリー② 石原ゆかり】独身のゆかりは、マンションの購入を検討し始める。将来の資金計画を検討する中から伺える、長期的な収入の確保に伴う仕事へのスタンス。初めはモデルルームを見たことで無理をしても手に入れたいと欲した物件だったが、背伸びをしない現実的な選択への葛藤が身近に感じられた。

【ストーリー③ 滝川由紀子】広告代理店に務める由紀子には、ある仕事が任される。今後のキャリアに迷いを感じていたのだが、女性がどうしたら輝けるのか、輝くとはどういうことなのか。 女の価値は若さなの? 20歳代の頃は周囲の目はチヤホヤしていた。しかし、30歳代を過ぎると、もうガールでいられない。

なら…任された仕事から、先輩の仕事の進め方を参考にし、自分なりにしなやかに仕事を成功させた。今まではと違った姿勢で仕事を楽しむことに気付いていく様子が力強かった。

【ストーリー④ 平井孝子】子どもが小学生になり、事務職から元々所属していた部署への異動を申し出た孝子は、シングルマザーだからと周囲に同情される仕事の進め方を嫌った。仕事に家庭の事情を持ち込みたくないと意識していた。

そんな中、同期の独身女性に自分の企画を横取りされた孝子は、子どもがいること=錦の美旗を相手に見せた。このことで後味の悪い思いが残るが。率直に「ごめんなさい」と潔く謝る。人の幸せは物差しを当てること自体が不遜だと、根底のメッセージが書かれている。

【ストーリー⑤ 小坂容子】ひと回り下の新入社員への指導担当になった容子は、新入社員に興味を持つ。長身でルックスも良い新入社員は容子以外の女子社員の興味の的となる。周囲の女子社員をかわしながら、一人前になれるよう教育指導をしていく。ふと、等身大の出会いがしたいと一歩踏み出す姿が描かれている。

 

映画『ガール』

2012516日東宝系でロードショーされた作品。

原作の『ガール』を基に、5人の女性の生き方が拮抗する形で映像化されている。

内容は、原作本に忠実なストーリー展開だった。オムニバス形式でないところが、日常の雑然としたありようがよりリアルに感じられた。ストーリーは原作本で紹介しているので割愛します。

今回、原作を読み、映画を見て、とても勇気づけられたため書評の題材として選定しました。

様々な状況にある女性が描かれていたことも、一昔前とは違うと感じているところです。

 登場人物は皆、仕事と自分の生き方の狭間で現実的な問題と向き合っている女性たちでした。

ストーリーの共通点は、自分自身で選択肢を持ち迷う過程も大事にしながら、決断して懸命に生きて前に進もうとする姿でした。そして、長期的にライフサイクルを捉え、キャリアを含めた人生設計をする視点を持つということを強く感じました。

女性の生き方も多様化しています。それを良しとする社会の流れを作るための一石を投じる作品だと思います。

(2103年10月)            

 

 

 

女性たちが変えたDV法 全国シェルターネット 遠藤智子編(新水社 2006年)+デートDV 遠藤智子著(マガジンハウス 2007年)

 

「女性たちが変えたDV法」~待望の立法化から改正へ~

 

2007年に書かれた「デートDV」は今から6年前の発行になる。同じ著者・編者で「女性たちが変えたDV法」は2006年に作られている。この2冊は今読んでも少しも古さを感じさせないのが不思議だ。

 

振り返ってみれば「DV防止法」が立法化されたのは2001年である。やっと法律になった安堵感と期待感でとてもうれしかったことを覚えている。先進国としては非常に遅い成立ではあったが、これまで数々の暴力被害当事者の話を聴いてきた私たちにとっては法律により当事者の安心・安全が守られることは悲願に近いものだった。

 

しかしことはそう簡単にはいかなかった。この法律を直接使う当事者の相談を受けていると、この法律だけではどうにもできないことも多々あることがわかってきた。加害者の行為から当事者を守りきれない状況が明確になり、3年後の改正に向けて動かなければならないことを私たちは知ることになる。

 

2004年の第1回改正までのこのDV法改正にかけた女性たちの活動と超党派の女性議員たちの関わりが克明に記されているのが、「女性たちが変えたDV法」である。「私たちの役に立つ法律に」が形になっていくさまは、望むことの立法化は手が届かないところにあるわけではないのだということが改めてよくわかり、諦めないことの大切さを教えられる。

 

「デートDV」~ジェンダーからの解放~

 

法律という器はできた。しかもDV相談の件数は年々増えている。これはDVが一般に認知された結果ともいえるが、件数が減っていないのも事実だろう。DVの原因はジェンダーであり、立場上弱い相手へのコントロールである。日本社会はジェンダー社会であり男性の暴力に対しては寛容である。こうした我が国の社会現状を踏まえ私たちが多くのDV相談から得たことは、ジェンダーにとらわれの少ない幼少期からの教育の必要性であった。

 

「デートDV」はDV法改正に中心的にかかわった著者だからこその力作といえる。1章から5章までで、全体的に非常に平易な言葉でわかりやすく書かれている。前半は「デートDVの現状と特徴」として、友人関係や携帯電話のチエック、家や学校への送迎、一日に数多くの電話やメールなど、一見「愛を装う」相手の行動を見誤らないこと、また愛情と殴ることは一切関わりがないことなので誤解しないように、などを事例から丁寧に解き明かしてくれる。後半はDV予備軍を見抜くためのチエックリストや予防教育、デートDVから逃れる方法など、すぐに行動に結びつけ実行できそうなことが盛り沢山で頷きながら読んでしまう。

 

相談に携わるものとしては、やはり予防教育に力をそそぎたい。なぜなら前述したように現在の男性による暴力容認社会の中では、義務教育の中に人権教育の位置付けで、お互いを尊重し合えるコミュニケーションスキルや、自分らしく生きるためにジェンダーバイアスに気づく等のプログラムを組みたいと思うからだ。本著には実際にそのような教育を授業に取り入れている地方自治体の様子が具体的に生き生きと書かれている。

中学や高校・大学生はもちろん、先生や思春期の子供を持つご両親にもぜひ参考図書として読んでいただきたい一冊である。

(2013年4月)

 

 

「子育て支援が親をダメにする」なんて言わせない 大日向雅美著(岩波書店 2005年)

 

本書は、母性愛神話からの女性の解放を長年にわたって主張してきた発達心理学・ジェンダー論研究者であり、子育て広場の施設長でもある大日向氏による、支援者の姿勢についての問題提起である。支援される女性、支援者双方からの現場の生の声に丁寧に耳を傾け展開する子育て支援肯定論は当事者双方にとってエンパワメントになると感じた。

 

本書は2部構成となっており、第1部「子育て支援はだれのため?なんのため?」では、本来子育て支援の一番の支援対象であるはずの女性の声が支援者に届いていない問題が指摘されている。子育て支援はそもそもどういう思いで始まったのか、原点に戻ってみようと大日向氏は訴える。女性が社会参加していくために子育ての大変さを社会のみんなで負担していこうというのが子育て支援の始まり。少子化対策や親教育はメインの目的ではない。つまり、子育ては大変という女性の本音を批判しないで受け止めるという姿勢だった。しかし、「少子化は止まらないではないか!」、「こんな親まで支援をしなくてはいけないの?」といった疑問の声が支援者側からささやかれるようになっていることに大日向氏は危機感を抱く。また、支援される女性と支援者側の信頼関係の欠如からくるコミュニケーション不足によって、支援される女性たちは母としての未熟さを批判されるのではないかと怯え、支援者たちの不満は膨らむばかりだという。本来、女性の味方のはずの支援者が「最近の若い女性は・・・」という従来の女性批判を思わず口にしてしまうという目をそらしたくなる現実にショックを受ける。しかし、同時にこの矛盾にきちんと向き合う大日向氏の姿勢に勇気づけられる。

 

第2部「子育て・家族支援の現場から」は、大日向氏が2003年から関わる港区との共同事業である子育て広場「あい・ぽーと」の活動から第1章の問題解決の模索が行われる。「あい・ぽーと」では子育て広場と一時保育で親を支援する。ここでは、母親を一人の大人であると位置づける。ぬいぐるみやパステルカラーであふれた子ども主役の場ではなく、落ち着いた無地の色合いの親子のための場を準備した。長年、女性の声に耳を傾けてきた大日向氏ならではのアイデアである。知らず知らずのうちに支援者が上から目線で子供相手のような口調で母親に語りかけてしまうこと、母親へのコミュニケーション講座でキラキラ星の音楽に合わせて輪になることを何の疑問ももたずに強いてしまうこと。これらの支援で大人としての母親の気持ちが傷つくのを見てきたからこそ配慮していることがいくつもある。「あい・ぽーと」では母親の社会参加を二段階で応援する。まず、家から一歩外に出て子育て広場に行くのが第一段階で、第二段階は資格取得のための学校通いや仕事復帰である。また、母親がリフレッシュすることを目的とする一時保育では、理由は聞かず、「たとえパチンコに行っても」預かるという方針にした。その他、元気溌剌バギーママ、シングルファザーなど、従来の弱り切った被支援者のイメージとはかけ離れた多様化した親に向き合うとき、従来の「支援」の固定観念にとらわれている自分自身にはっと気づきながら日々軌道修正をしているのだという。

子育て支援は「この女性を助ける意味は何か?」という社会からの、そして自分の内面からの声に一つひとつ答えながら前に進んでいく活動であり、その点でフェミニスト・カウンセリングの方向性と一致していると痛感した。フェミニスト・カウンセリングの実践においても、支援者自身がうっかりすると女性批判にまわってしまう「罠」といつも背中合わせであることを忘れてはならないだろう。

(2012年10月)