Cinema & Book Review

 「心の病」の脳科学 

なぜ生じるのか、どうすれば治るのか

林(高木)朗子・加藤忠史 編  

ブルーバックス (株)講談社

 

 

 うつ病や統合失調症、発達障害などの心の病はどうして起こるのか、またそれをどうしたら治すことができるのかを、最先端の研究を行っている16人の脳科学者がわかりやすく報告したのが本書だ。

 

3部12章の構成になっていて、第1部「心の病」はどこから生じるのか? では、脳の神経細胞であるシナプス(細胞レベル)の不具合、遺伝情報であるゲノム(分子レベル)の異変、脳回路(脳全体)の障害の3点から精神障害の原因を検討する。それぞれの仮説は一方を否定するものではなく、不具合は重なりあい、影響しあって障害を起こす。たとえば統合失調症発症への影響が大きい遺伝子変異はシナプスで働いているらしいといったことだ。

第2部 脳の変化が「心」にどう影響するのか? では、慢性ストレスによる脳内炎症がうつ病を発症させる仕組みや、自閉スペクトラム症、注意欠陥・多動症(いわゆる発達障害)と脳機能の関係について、脳科学の仮説を紹介する。脳内の炎症に体の炎症が関係している、というのも有力な仮説だ。体の炎症が進むと脳血管の防御機能が弱まり、炎症が脳にも及びやすいらしい。

第3部「心の病」の治癒への道筋 ではPTSDのトラウマ記憶やなかなか治癒しない双極性障害を内服薬で治す研究や、自分で脳活動を望ましいパターンに誘導するニューロフイードバックを用いて精神疾患を治療する考え方。生身の人間とのコミュニケーションが苦手な自閉スペクトラム症の人びとへのロボットでの支援。あるいは神経変性疾患の治療薬の発見を通じて、精神疾患の根本的な薬ができる可能性が示される。

 

特別の科学知識がある人が読者対象ではなく一般読者向けの本書だが、根っからの文系である私にとっては決して読みやすくはなかった。「気になる章のテーマから読んでもかまわない」とあるように、各章は内容がつながっているわけではない。しかし全章を読むことで、遺伝子を扱う分子レベル、シナプスなどの細胞レベル、つながりや構造で考える脳全体のレベルの3層が絡み合い、影響し合って心の不具合が起きていることが腑に落ちる。また対処療法にならざるを得なかった精神疾患の治療に対して、根治を目指す科学的な努力が続けられていることが分かった。この本を呼んで以降、カウンセリングをしながら頭の隅で、脳のイメージを思い浮かべるようになったのは、大きな変化だ。

 

 

 

 

 ぼくらの中の「トラウマ」

 いたみを癒すということ  青木省三・ 著 

 筑摩書房  2020年1月

 

 

 著者は精神科の医師である。長年、大人と思春期青年期の臨床に力を注いできた。本書は「トラウマとその心の痛み、トラウマについて少し距離をおいて冷静に眺め、どう対処したらよいか、一緒に考えたい」と言うねらいで書かれている。その苦しさから抜け出すヒントや、周囲の支援者ができることを伝えたいという思いで書かれている。

  

 私は、著者の「ぼくらの中の発達障害」(筑摩書房、2012)を読み、感銘し、最近の著書を調べて本書に出会った。トラウマはずっと関心のあるテマであった。相談現場でも丁寧で慎重な対応が迫られるテーマである。しかし、私は小難しい本はなかなか最後まで読み通すことができない。そんな中で、本書は平易な文章に苦心され、事例を挙げながら大変読みやすかった。心に語りかけてくるものがあり、共に考えることができた。

  

 トラウマという言葉は、社会の中で日常用語のように浸透して使われるようになった。 

トラウマ体験は、比較的軽いものから、生命を脅かすような出来事まで幅広く存在し、生きていく上で避けることができないものである。著者は「心の傷から流れ出す血は目に見えない。」と言い、トラウマに気づく大切さを指摘している。 

 

  第一章から第三章まではトラウマの基礎知識である。トラウマ反応で起きること、例えばフラッシュバックや、身体の不調など、また、その反応を起こすメカニズムや要素、回避や乖離という心の働きについて、わかりやすく説明されている。

   第四章、第五章はトラウマとの向き合い方について。心だけでなく、からだを通して受け止めていく大切さも語っている。トラウマを言語化することについても慎重に検討されている。  また、レジリエンス(心の回復力)や、心的外傷後成長にも触れている。

   第六章は,著者自身のトラウマとその治療体験記である。好きな旅を通して、如何に癒されていったか、イメージ豊かに語られている。

   第七章は、家族や友人、教育福祉医療者など支援者のできること。著者は「支援者なしでは、なかなか癒えないものである。」と指摘する。

   最終章では、ヒロシマの原爆という過酷なトラウマを、人々がどのように癒そうとしたのか、その一部が書かれている。著者の語りを静かに聴かせていただく気持ちになった。

 

本書には温かな眼差しを持ち、試行錯誤しながら、少しでも患者にとって、適切なやり方を模索する姿勢が、随所に見られた。事例からは、細やかな観察に基づき、寄り添った対話がなされていると感じた。女性相談は治療関係の場ではないが、できることに共通するものがある。本書を読んで、私は納得できることや確かめられたことが多々あった。また、読み進む中で、私自身のトラウマや来談者の痛みを思い出した。読み終わって、どこかじんわりと癒された感じが残った。     (2022年 10月)

 

 

 

 「他者の靴を履く 

 アナーキック・エンパシーのすすめ」

 フレディみかこ・著 文藝春秋発行 発売 2021年

 

 

 この本の著者は、英国在住のライターである。前作の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本がべストセラーになり、その「大人向けの続編」という位置づけで書かれた本である。筆者も前作を読み、色々な刺激をもらったということもあり、書店で同じ著者の、この『他者の靴を履く』という印象的な題名の本が目に飛び込んできて、さっそく読みたいと思った。

 

 著者がこの本を書いたのは「前作の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本を出した後、想像外の反応として「エンパシー」という言葉が強い印象を読者に残し、インタビューされることが多かったので、もっと深く「エンパシー」について文章を書きたいと思ったこと」が動機だと書いている。

 

 まずは「エンパシーとは何か?」というところから入っていく。英語ではまず「エンパシー」と「シンパシー」という2つの言葉があるが、日本では「共感」という同じ訳語で訳されていることが多く、その違いがよく理解されていないという。それで「シンパシー」と「エンパシー」の違いや、「エンパシー」について、色々な具体例を示しながら理解を深めさせていく。具体例としては、坂上香監督のドキュメンタリー「プリズン・サークル」や、大正期日本のアナキストである金子文子やイギリスのサッチャー首相の例などが語られていて、この一つ一つの例についても、もっと知りたくなるような気持ちになっていく。

 

 著者の定義では「シンパシー」は「他者と同じ感情を感じること」とある。

また、「エンパシー」は「他者を他者としてそのまま知ろうとし、自分とは違うもの、自分は受け入れられない性質のものでも、他者として存在を認め、その人の事を想像してみること」と定義している。また、エンパシーの力は人間に本来備わっている特性ではないので、人格形成のためにエンパシー教育が必要と唱えている。

 

 一方で「他者の靴を履いて、自分の靴を見失って、履いた対象に自分を支配されてしまっては、元も子もない。他者の靴を履く前に、自分の靴をしっかりと履いている必要がある。」とも唱えている。

 

 コロナの影響で、活発化しているSNSでの炎上や誹謗中傷などの様々な問題は、このエンパシー能力の足りなさから引き起こされているのも一因だと思う。色々な世界の人や多様化した価値観の人と簡単に気持ちを分かち合うことのできる、この世の中だからこそ、相手の状況や歴史を知り配慮した上で、一方的でないコミュニケーションが必要なのだと再確認させられた。

 

 筆者は本を読んだ時に、世界が広がって好奇心が次々と湧いてくるような本が良い本だと思っているが、この本はそういう類の本だと言えるので、ぜひ手に取ってもらえたらと願う。   (2022.4月)

 

 

 

 「ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ」

 ジョアン・C・トロント 著 

 白澤社 発行 現代書館 発売 2020年

 

 

地域の友人たちと続けている小さな読書会で読んだ1冊。会のあとの飲み会は愉しみの1つだが、今年はそれもお預けでオンライン開催が続いた。しかし、コロナ禍にあってよりいっそう切実感が増し、かつフェミニズムの視点から社会に問い続けてきたテーマが、ずばりタイトルに込められた本書を読む機会を持てたことはとても良かった。

 

Who cares? :ケアするのは誰か?』およそ誰のケアも受けずに育つ人など1人もなく、生まれ落ちてから死ぬまで、その日々はケアの連続だ。心身の健康はもちろんのこと、衣食住を保ち、生活を成立・継続させる産業経済社会、政治社会も、実は間断なき相互ケアの所産である。

 

 本書の構成は、米国のフェミニスト政治思想家であるジョアン・トロントさんの講演録である第1章と、訳者であり日本のフェミニスト政治思想学者の岡野八代さんによる第2章、3章が、1章の解説・分析でありさらに日本の現実に照らした論考として収められている。

 

内容はかなり硬派だが、コロナ後の社会に響くメッセージが満載だ。ちょうど特集の話題となったオリンピックを彷彿とさせる、興味深い寓話も登場するので、ここで紹介しよう。

 

昔々、女神たちが世界の国々で一種のオリンピック競技を開催することにした。一定時間内に集団で最も遠くへ走ることができた国の全ての者に健康と財産が与えられる。これはある距離を最も短時間で走るかを競うのではなく、どの社会が1チームとして全構成員を前進させられるかを測るという。競技はいつ終わるのかは教えられていない。

 

 国は全員にできる限り早く走れと命じるが、走れる者だけが走る戦略は、多くの者を自分のことだけを考える思考に導き、動けない人やその人に寄り添いケアする人を脱落させてしまう。 

 

B国は全ての若い健康男性をトップランナーとし、遅れて子ども、病人、高齢者など手当てが必要な人のケアに全女性たちを併走させた。指導者は効率的な編成だと説明し、早く走らせるため男性には権威権力を与えるが、やがて女性たちは男性にない責任をもし負わされなければ、男性と同様に走れることに気づく。ケアの重要性や、男性と同等の権利を訴えてストライキとなり、B国も競技を続けられない。

 

 C国は全員に、走ることと走れなくなった者のケアを命じた。負担と共に走ることは大変だが、みなが平等にケアを負担することで人びとに連帯感と強さを作り出し、C国がこの競技に勝利することとなった。

 

この寓話を創作したのは米国の経済学者ナンシー・フォルブルさん。これを読んでもわかるように、本書では、ケアワーク、ケア責任のあり方が社会全体のあり方として問われている。すなわち「ケア」を、「世界を維持し、継続させ、修復する」という意味としてとらえ、政治と民主主義のど真ん中の課題として差し出すのだ。

 

そして、ケアの倫理や平等性から考えれば、新自由主義の市場経済システムをみとめる現行の民主主義は、根本から作り直さなければならないのでないか、という大胆な問題提起を投げかける。「民主主義は、ケア責任の配分に関わるもの」であり、「ケアの提供に多くの時間を費やされ、あるいは社会で低位に置かれて働く人がいる一方で、ケア責任から免れている人は誰なのか?」。 こうした鋭い指摘にいちいち頷きながら同時に、ではこれからどういう社会に変えていくのかと、私たち自身に投げられた問いも深い。折しも新首相になった人物がまた言っている。資本主義の「成長の果実」を全国に届ける、と。果汁のしたたる一滴を待てるほど、ケア現場に余裕があるとは思えない。  (2021年 10月)

 

 

 

岩波の子どもの本「ちいさいおうち」         (The Little House) バージニア・リー・バートン  文・絵 石井 桃子 訳 岩波書店 2019年11月改訂

  

~昔々、ずっと田舎の静かなところに

ちいさいおうちがありました。

それはちいさいきれいなおうちでした~ 

 

この文章で始まる物語をご存じの方はきっと沢山いらっしゃるでしょう。そう、これは有名な「ちいさいおうち」の書き出しです。1942年にアメリカのバージニア・リー・バートン(19091968)によってつくられ、日本では1954年(昭和29年)に石井桃子が翻訳、日米の女性二人により出版された絵本です。一昨年(2019年)にはバートンの生誕110年を記念し、より原作に近い美しい色彩で改訂版が再版されました。世界中で読み続けられてきた傑作絵本です。

 

 

朝にはお日様が昇り、夕方には日が沈み、夜にはお星様やお月様を眺める一日。春のリンゴの花、夏のヒナギク、秋の色鮮やかな輝きの木々、冬の雪景色、季節の移ろいとその中で毎年繰り返される人々の暮らしや子どもたちの遊びを、丘の上に建てられた“ちいさいおうち”はじっと見守っています。何年もの間、繰り返されていたこの平和な光景はずっと続くかと思われました。しかし変化が訪れます。ある日、馬車が行き交っていた道に自動車がやってきます。自動車はどんどん増えていき丘を削って大きな道路が出来ました。さらにあたりにはビルが建ちはじめ、夜でも眩い街灯が輝き、電車が走り高架になり…気がつくとそこはかつて遠くに眺めていた街の中になっていたのです。何も変わることなくただじっとそこにいる“ちいさいおうち”は時の流れの中でどんどん忘れ去られていくのです。

 

 絵本は “ちいさいおうち”を中心にした安定感のある構図と穏やかなデザインで統一されています。

 

ページごとに変化する柔らかな色彩の絵を楽しみながら、次第に読み手の気持ちは “ちいさいおうち”に重なっていきます。物語は人間が生活する上での自然との調和や近代化に伴う自然破壊への懐疑がテーマになっており、大きな問題を取り上げているのですが、決して声高な主張ではなく細やかで気配りのある文章からその思いが伝わってきます。ストーリー展開は子どもに分かりやすく、大人でも充分に読み応えがある完成度の高い構成となっています。

 

 

当初バートンは自身が経験した田舎での野菜作りや羊飼育を基にして、この作品を自分の家族のために考えたそうです。絵本の中で繰り広げられる素朴な生活からみると、今の私たちの暮らしは次々に開発される技術で大層便利で豊かになっています。中でも通信分野はパソコンやスマートフォンの普及で、その簡便さから家族間でもLINETwitterはもはや日常的、直接相手と繋がらなくても一方的に用件を伝えることが出来ます。WEB上は各種SNSがコミュニケーションの主流となり、世界中何処にでも瞬時に情報発信が可能となっています。少し話は飛びますが、一時娯楽分野で世間の関心を集めたバーチャルリアリティは、今では各種専門分野や商業分野でも実用化され幅広く活用され始めています。女性にとって身近な化粧品売り場やブティックでは実際のメイクや試着をすることなしに映像で自分に合った商品選びが出来るお店も登場。また住宅メーカーでは個々の建築設計図をもとにした立体映像で住み心地体験をリアルに提供など。このように人の五感に働きかける迫真の擬似体験は、今後ますます精巧で巧みなものになっていくでしょう。そうなると私たちは現実と仮想の境界線を行ったり来たり、日常生活は今よりさらに複雑なものになると予想されます。その環境は進歩的技術を享受する反面で、仮想とない混ぜとなった現実に対して漠然とした不安を抱える人も増えるのではないかと思われるのです。真実と虚偽の見極めが困難な例としてオレオレ詐欺も巧妙化から被害が増大し社会問題になっています。このような社会不安が高まる中、リモートワークに伴って地方移住者が増えている現象を安心感のある住環境を望む人口の増加と捉えてみると、コロナ禍は現代都市型生活に潜む不安感を思いがけない形で明確化したのかもしれません。

 

 

それにしても今から約80年も前に、技術革新や都市化問題を見据えて社会への警鐘を優しい作品に完成させたバートン。彼女の本質を見抜く力や洞察力の鋭さに改めて感動を覚えざるを得ません。そしてそれは日常生活の重要さを充分に知っている女性だからこその視点だと思うのです。この絵本に接すると素朴でノスタルジックな生活に深い安心感があります。そう言えば読み聞かせの時“ちいさいおうち”に幸せが戻った場面で、幼かった子どもたちの口から安堵のため息がもれたことを思い出しました。昨年春から続くコロナ禍では通常の生活に緊張を強いられる日々でした。マスクは必須、何をするにもまず消毒、人とはソーシャルディスタンス等々。患者数の増加や混乱する報道の繰り返しで明確な自覚もないままストレスをため込んでいたようです。ある日、本棚の絵本に目がとまり思わず手に取りました。穏やかな絵に誘われてページを読み進めるうちに緊張がほぐれて緩やかな気持ちが戻ってきたように感じたのです。この絵本をご覧になったことのない方には是非、すでに読んだことのある方にも今一度、読んでいただきたい作品だと思っています。(2021年 4月)

 

 

 

 

 

『完全版 韓国・フェミニズム・日本』   斉藤真理子 責任編集  河出書房新社              2019年11月

 季刊誌『文藝』の2019年秋季号が韓国文学とフェミニズムの特集を組み、好評で重版となったため、改めて単行本として発行された。その経緯と編集者の驚きを巻頭言で伝え、まず4つの韓国文学小説が掲載されている。『82年生まれ、キム・ジヨン』の作者、チョ・ナムジュの短編『家出』をはじめ、初めて読む韓国文学としても、翻訳の良さも手伝って、いずれもフェミニズムをテーマにしたものという以上のスリルとサスペンスと気づきのヒントが丁寧に用意されていて読み易い。

 

 

 小説に続いて本書の責任編集者である斎藤真理子氏と翻訳家の鴻巣友季子氏の対談のタイトルは「世界文学のなかの隣人」。日本と韓国のそれぞれの文学の発展と沿革に始まり、現在の韓国文学界で勢いを持っているフェミニズムの視点、なぜ『82年生まれ、キム・ジヨン』は韓国でヒットし、日本でも注目されているのかなど、両国の歴史や現状を分析している。

 例えば、韓国では詩が発展していて、それは表現の自由が制限されていた1980 年代までの軍事政権下、詩という抽象的な表現方法を用いるしかなかったとか、日本文学のトレンドでは個の内面に着目し、自分の中の矛盾した感情や鬱屈した気持ちに深く入り込むところだが、韓国では個人の視点で進みながら、気づいたら社会の中に存在する差別や苦しみに集約され読み解こうとしていくといったことなど、まさに“Personal is Political”を実践している。そういえば、私はふだん韓国ドラマをよく見ているので、ドラマの中にもそう思わせる台詞、ストーリー展開、背景などがよくあり、制作陣がフェミニズムをうまく取り入れているなと感じていたところだった。

 

 

 さらに韓国から2人、日本から9人のエッセイ、寄稿、論考が続き、文学だけでなく、K-popやドラマなどのポップカルチャー、歴史、LGBTQ、在日韓国・朝鮮人の視点など、さまざまな視点で、タイトルにある日本、韓国、フェミニズムについて掘り下げている。

 

 

アイドルのファンたちもなかなかおもしろい(エッセイ「推しとフェミニズムと私」渡辺ペコ)。アイドルや芸能人が性差別言動を行うとSNSを駆使して支持しているアイドルを叱責し意見をアップする。同じようなことがあっても日本のファンの反応は、「今までの実績もあるし、そんなに悪人じゃない」と擁護するか、中立を保とうとするだろう。政治にも社会的な事象に対しても通じる姿で、どうして私たちは自分の意思や気持ちよりも空気を尊重し、何を忘れてしまっているのだろうと思う。社会学者のハン・トンヒョン(韓東賢)氏のエッセイ「違うということと、同じということ」で、「違うことへのファンタジーと同じことによる焦燥」「違うことによる安心感と同じことへの共感」の両面があると言っている。「文脈理解への意思とリスペクト」を持って、「今はまだ存在しない一緒に歌える歌」を私もいっしょに探していくことが、興味関心を持った者としての責務、いや、いい時間を過ごさせてもらっている感謝を表したいと思うのです。

 

 

 とにかく壮大なタイトルなので、本稿で全てを紹介しきれないが、社会と世界を考える時間となることは間違いない。そのための道しるべとして、編集者の極私的ブックリスト、近現代韓国の厳選ブックガイド、現代K文学マップ、キーワード集もついているので、ぜひ手にとって見てほしい。                  

                        2020年10月30日

 


 

映画「空と、木の実と。」2019

 

私がこの映画を見るきっかけは、今年2月に参加した世田谷区LGBT研修会での講師原ミナ汰さん(NPO法人「共生社会を作るセクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワーク」代表理事)の助言からでした。現在私が担当しているケース、「夫がトランスジェンダー」という60代の相談者の対応について質問したところ、「同じような高齢のカップルが登場する映画があるので見ては」と紹介されたのがこの「空と、木の実と。」でした。

 

本来の主人公は小林空雅(たかまさ)さん。日本最年少で性別適合手術を受けたトランスジェンダー(FtM)の若者でした。映画冒頭、主人公がサラリと語った言葉にまず引き込まれました。「自分は、元々は男性なのに間違って女性の体を持って生まれてしまった」「男なのに女の体を持つのはややこしい」、なので「子宮や卵巣があるのは間違いだから手術が必要」。そして主人公は「手術はやりたいのではなく、やって自分をゼロに戻す」「違和感からの放」と続けます。FtMの人たちについて、「元々は女性だが男性の心を持っている」という見方をしていた自分の認識の浅さを指摘されたようなハッとさせられる一言でした。手術は実は「適合」というよりはむしろ「本来の元の姿に戻る」、という全く別の次元の捉え方があることの気づきでもありました。

 

  悩みながらも中学時代から自らの性自認をオープンにして過ごしてきた主人公。高校卒業後バイトで貯めた貯金と母親の支援で、法律が定める最低年齢20歳ですぐ適合手術を受け戸籍の性別も変えます。そして「手術も成人式」と空雅さんは語ります。声優を目指しながら語る「性を感じさせないところで感動させればいい」という彼の言葉は、世界最高齢の78歳で性別適合手術を受けたもう一人の前述の登場人物(音楽家)の「クリエイティブなものに性差を持ち込むな」という言葉に繋がります。

 

  映画「空と、木の実と。」はこのように主人公が放つ言葉の数々にこそ、その説得力と存在感があります。そして自ら紡いだ言葉をプロの初仕事として、ナレーションで披露します。主人公の思いが本人の声を通してさらに真摯に伝わるのもこの映画の見どころといえるでしょう。

 

ネタバレになりますが、最後に思いもかけない展開が待っています。プロデューサーが病気のため撮影が一年半中断している間に、主人公は様々な身体的心理的理由からその性自認をFtMからXジェンダーへと変転していたのです。そして映画のエンドロールには「ナレーション小林このみ」の文字が流れます。でも、これも主人公の言葉、「男と女のあいだのグラデーション」「どちらでもないが、どちらでもある」を思い出すと、自然に受け入れられるのかもしれません。そして、上映会場を後にする頃には、もしかすると「元々女、元々男」などというものは幻想なのかもしれない、という思いが湧き上がって来ていました。                                                                     2020年4月30日

 

『増補新版 ザ・ママの研究』            信田 さよ子 著(新曜社 2019)

 

 本作のページを開くとまず、「あなたのママはどのタイプ?」というフローチャートを目にします。超ウザママパーフェクトママかわいそうママ夢みるプチお嬢様ツンデレ小悪魔ママフツーすぎママ恐怖の謎ママ7タイプ。特徴は多かれ少なかれでしょうが、誰もがこの7のどれかに当てはまるのではないでしょうか。私は母と自分、両方フローチャートを進めてみると同じタイプに行き着き、笑ってしまいました。

 

  前書きに「自分を生んだママは世界中でたったひとりしかいない。ほかの誰とも取り替えることなどできないということが、ママとあなたの関係をこよなく強くする。」とあります。

 

確かに、自分を生んだ母親は唯一無二の存在です。同性である娘は特に結びつきが強く、だからこそ関係性が難しい。

 

 家族だから当たり前のように共に暮らし、日々が過ぎていく。しかし多くの娘さんが、母親の言動に腹が立ったり、母親との関わりに困るといったことを経験すると思います。ただ、困ると感じることはできても、何となくの違和感だったり、何をどうしたら良いのかわからず時間だけが経過してしまうことがほとんどなのではないでしょうか。場合によっては、しんどさを抱えたまま大人になり、生き難さを感じてしまうこともあるかもしれません。

 

 そうならないために、母親に興味関心を持ち、研究してみようという提案を本作はしています。

 自分の母親は一人だけであり、母子関係の経験も一つだけです。そのため自分の母親の世界観しか知ることができず、どこに問題があるのか見えにくくなってしまうでしょう。そこで、色々なタイプの母親がいるとわかれば、客観的に母親の問題点が見えてくる。理解できない母親の言動は、真正面で受け止めず、不思議リストに入れて距離を取る。母親との関係性で困ったとしても、それは自分だけのせいではない。

 

母親にも問題はあるのだと、巻き込まれずにうまく付き合うことができると、自分の人生を歩むことができるのです。

 

 今まさに少女である娘さんたちには、ぜひ本作を手にしていただき、母親のタイプを考えてみて欲しいと感じました。母親のことがわかると、落ち着いて関わることができ、苦しまずにすむ可能性があるからです。

 

 そして、すでに大人になった女性も今からでも母親を客観視することができれば、自分を責めることをやめ、しんどさの軽減に繋がるかもしれません。

 

 距離が近すぎる母親と娘は、巻き込み合い、気がつくとがんじがらめになって、お互いに苦しいことがあるでしょう。 “母親を知り、他の母親と比較し、混乱を整理してみよう。という本作の提案はとても役立つものだと思います。

 

  少しでも多くの母娘が、ほどよい距離を築き、お互いを好きになれたら良いなと感じます。(2019年10月)

 

『選べなかった命:出生前診断の誤診で生まれ た子』   河合香織 著(文藝春秋 2018)

 

 この本は生まれた子がダウン症だった両親が医師を訴えた裁判を根幹として、出生前診断を巡る様々な状況を追ったルポルタージュである。この裁判を起こした母親は出生前診断を受けていて胎児はダウン症との結果が出ていたにもかかわらず医師の検査結果の読み落としというミスで母親に「異常なし」と伝えられた。異常があったら中絶をしようと考えていた両親は安堵して出産したが、果たして生まれた子は重い合併症をもったダウン障害の男の子だった。

 

重いテーマである。何が重いのか。それは、私たち一人一人が「命の選別」をしなければならなくなったのか、が問われる問題だからである。

 

裁判を起こしたこの母親が一番求めたのは、医師の単純ミスによって生まれてしまったために男の子が「地獄の苦しみ」を味わわなくてはならなくなったことに対し、医師から男の子本人に「謝罪」して欲しいということだった。それで自分たち両親への慰謝料とともに子ども自身に対する慰謝料を求めた。母親は苦しみだけだった3か月の命の終わった時に医師が子供本人に謝ってくれたならこんなことにならなかったという。だがそうした思いで起こした裁判は日本初の「ロングフル(wrongful)ライフ訴訟」となってしまった。つまり、重篤な障害を持って生まれてきたことが即ち損害、間違ったこと、良くなかったことかどうかを問う裁判になってしまったのである。医師が子ども本人に謝るということは、生まれさせてごめんなさいということになるからか。そこからこの両親は多くの人権団体や障害者の会、マスコミなどから激しく非難された。障害者は生まれること自体が悪なのか、殺されても(中絶されても)当然なのかと。

 

「生殖医療の発展」によって妊娠初期にその胎児の障害が概ね分かるようになった。つまり私たちはその命を産むかどうか、選ぶことができるようになったのである。選択できることは女性の権利だという考えもある。一方、人間が人間の命を選別することは許されることではないという考えもある。でも誰もが選べるのだろうか。誰もが与えられた状況に冷静に迷いなく判断できるのだろうか。

 

実際、NIPT(新型出生前診断)受け、胎児に障害があると診断された人の9割が中絶しているという(2013 ~20189月までの臨床研究の結果)。重度の障害を持った我が子が将来社会に出て明るく暮らすことを思い描けない限り、産むことを躊躇する親たちはいるだろう。産めないと思うことを責めたくない。また産みたいと思う人を受け入れ、その子を家族だけでなく社会が受け入れられるようにしたいと思う。

 

障害をもった人が暮らせる社会は「健常者」にとっても住みやすい社会であることに間違いはないと思うから。

 

裁判を起こした両親は、社会に思いがけない波紋を投げかけた。科学、技術の発展に人間の知恵が追い付いていないこの現代社会に、命の選別という深刻な問題を問いかけたのだと思う。

 

*「母体保護法」上、現在、人工妊娠中絶を認めているのは、「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」と、「暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」に限られ、胎児の病気や障害を理由とした中絶は認められていない。しかし、「出生前診断」の導入により、現実に命の選別がおこなわれてしまうという危機や混乱、責任、情報提供やカウンセリング等について、多くの議論がある。優生思想や命の差別については、これまで以上にセンシティブな視点が問われている。

                             (2019年4月1日)

『日本のヤバい女の子』はらだ有彩 著              (柏書房 2018)

 

 タイトルの大胆さに惹かれて手に取った。昔話の中にいるたくさんのエキセントリックな女の子たちが、長い時間をかけて背負わされた「果たすべき役割」を取り払って、一人の女の子同士として「文句を言いあったり、悲しみを打ち明けあったり、ひそかに励ましあったりして、一緒に生きていくための本」だという。

 

 著者は関西出身の、テキスト、テキスタイル、イラストレーションを作るテキストライターであり、デモニッシュな女の子のためのファッションブランドmon.you.moyoの代表。

 本書は、ウェブマガジン「アパートメント」に連載したエッセイを大幅に加筆、修正して書籍化したものである。

     いなくなる女の子たち

    キレる女の子たち

    人間やめる女の子たち

    殺す女の子たち

     ハッピー・エンドの女の子たち

5つのカテゴリー・5章に分類し、昔話のヤバイ女の子20人が登場する。

 清姫、イザナミノミコト、かぐや姫、乙姫、鉢かづき姫などよく知られたお話、あまり馴染みのないお話もあるが、始めにあらすじが紹介されているので読み進められる。

 昔話を切り口にしたエッセイなので、著者の想像力の産物と言ったらそれまでだが、昔話の女の子たちと、今を生きる著者が共鳴して、自分の言葉で語り、イラストでイメージを広げていく所に、独自性が感じられる。

 特に激しい怒りと悲しみで蛇になった清姫に寄り添う目線はインパクトがある。女性にとって怒りはネガティブなものとして受けとめられがちだ。著者は、怒りに固執し破壊することを生きる支えにするのではなく、怒りを自分が一番欲しいものを教えてくれるものと考えた。怒りを表現することの意味を肯定的に捉えている。蛇になった清姫のその後を想像するクライマックスは温かく、爽快ですらある。

 虫愛()づる姫君のお話では、姫を自分の好きなことに夢中になっている普通の女の子と捉える。好きなことをして暮らすために周りを説得はせず、敢えて身を隠す選択をした姫への目線はやさしい。その人らしく生きるための方法がいろいろあっていいと。現代ならインターネットで同じ仲間と知り合えたかも、に納得した。

 最後の「有明の別れ」のお話では、女とか男とか、友情、恋愛、結婚、セックス、いろいろな角度から考察し、何がハッピーエンドなのかに思いをめぐらせている。

「現代をたくましく乗り越えて、今度は私たちが幸福な昔話になる日を夢見て」(著者)

普通は○○のはず、といった同調圧力に屈せず自分らしくありたい、そのためのクールさやしなやかに生きる思いが本書から伝わってくる。                       (2018年10月31日)


コミック『傘寿まり子』      おざわゆき 著   (講談社 2016  KCデラックスBE LOVE)

 

  去年のこと、80歳になる女性が主人公というコミックの広告が目にとまった。80歳(傘寿)の女性が主人公? どんな内容なのだろうと興味をそそられ、早速手にしたのが 『傘寿まり子』だった。その年齢とは思えない主人公の発想と活動が生き生きと描かれたコミックで、このような題材を取り上げるのは画期的なことではないかと思った。

 

 物語は80歳になるまり子さんが家出をするところから始まる。亡き夫と共に建てた我が家が「(つい)棲家(すみか)」と思ってきたまり子さんにとって、同居している息子家族の建て替え計画を耳にした時に、自分の存在がお荷物になっていることを知り、家を出たのだ。子ども世帯と同居する母親が居場所がないと感じることはままあることだが、行く当てもなく家出を実行に移すことはなかなかできない。その行動力に驚かされた。まり子さんが現役の作家である、という設定が行動力の源になっているのだろうか。

 

単身の高齢者が簡単にアパートを借りられるわけもなく、辿(たど)り着いた所はインターネットカフェ。拾った猫をこっそり飼いながらの、インターネットカフェ生活で執筆を続けるまり子さんの姿は(たくま)しい。しかし突然、小説の連載を打ち切られ仕事を失ってしまったところから、まり子さんの新しい世界が開かれることになる。

 

 まり子さんの周辺に登場する人物はそれぞれに個性的で現実には出会えそうもない人たちだが、そこにコミックならではの面白さがあり想像力がかき立てられる。オンラインゲームで知り合った75歳の孤独な女性、ゲームの達人の大学生、謎めいたネットカフェのオーナー、初恋の人との再会と同棲。このような仲間たちとの交流や支え合う関係は、読者がこのようにできたらいいなと思う願望を具現化しているようでもある。

 

また多くのまり子さん世代には馴染みのない用語や内容、例えばパソコンのオンラインゲームなどは、絵で見ることによりゲームの仕組みや臨場感が伝わり、私も分かったような気分になる。小説の連載の仕事を失ったまり子さんは新たな発表の場を思いつく。それはインターネット上にウエブマガジンを誕生させることだった、と言っても私にはチンプンカンプン。まり子さんと共に覚えるところも、コミックだからこその面白さがある。

 

 この本が多くの人の共感を得ているとも聞いているが、それは現在の社会が抱える高齢者の問題を実に的確に取り上げている点にもあるような気がする。例えば、まり子さんの家族について言えば、決して関係が悪化していたのではなく、立て替え計画云々も経済的にやむを得ない事情といえること、高齢者が自立した生活ができにくい住宅問題、母親と娘との確執、ごみ屋敷の存在などが随所に描かれている。

 

 これが同年齢の男性が主人公だったらどうだろう。まり子さんのように思い切った、かつ柔軟な行動、さまざまな人との関わりができるだろうか。

 

ここまでが第1巻から5巻までの大まかな流れだが近々第6巻目が発売されるとのこと、今後のまり子さんがどんな飛躍をしていくのか楽しみにしている。

 

私自身がこれから先の年月を、どこで何をして過ごすか模索しているところだったので、自分を重ねながら読み進んだ。現在、多くの高齢の女性たちが多面的に活躍をしているが、このコミックが、もう一歩踏み出せないという女性への後押しになるのではと思う。

 

                       (2018年4月30日)  

 

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』  チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著           くぼたのぞみ訳 (河出書房 2017)

 

 本作は、ナイジェリアの作家チママンダ・ンゴズィ・アディーチェが201212月に*TED x Eustonでのトークに加筆したもので、「フェミニズムについて必要不可欠な話し合いが始まってほしいとの思いからはなすことにした。」という前書きから始まります。

 

 彼女は14歳のとき、親友であり、兄貴みたいな存在のオマコロから「おまえってフェミニストだな」と言われ、「フェミニスト」という言葉に出会います。そして、2003年長編小説『パープル・ハイビスカス』を発表した後、あるジャーナリストから忠告を受けます。「あなたの小説はフェミニスト系とみんながいっているけど、絶対に自分のことをフェミニストといわないほうがいい…」と。そこで、「フェミニスト」という語がネガティブな重荷を背負わされていることに気づきます。

 

 トークは彼女自身に起きたエピソードが語られます。子ども時代の忘れられないこと、テストで最高得点を採った彼女が学級委員になるはずが、2位の男子が委員になった出来事に始まり、大人になってからもホテルやレストランで、アメリカの友人の職場で、子育ての中で、女性という理由で無視され、誤解され、不愉快な思いをさせられている現実に目を向け、改善を訴えます。

 

子どもたちを育てる時にジェンダーよりも、その子の能力や才能、興味や関心に焦点を合わせたらと提案しています。

 

「ジェンダーの問題は、私たちがありのままの自分を認めるのでなく、こうある『べき』だと規定するところにあるのだから、自由で、本当の自分でいられるように、考えていくこと、話し合っていくことが必要である」と。そして「私は自分が成長する過程で内面化してしまったジェンダー絡みの学習について、いま学びなおしているところです。」と。その姿勢に共感させられます。

 

私たちは世界中の隅々まで張り巡らされたジェンダーシステム、今もせっせと開発されているだろうシステムに対して、学ぶこと、考えること、話し合うことを常に意識し、繰り返していくことが必要であると強く思いました。

 

そして彼女は結びます、『わたし自身のフェミニストの定義は、男性であれ女性であれ、「そう、ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね、もっと良くしなきゃ」という人です。』と。

 

今日だって、明日だって、ジェンダーの問題に気づき改善を考え、言葉にして、声に出して、文字にして伝えていきたいと改めて実感できる一冊です。

 

 

 

*TEDTechnology Entertainment Designの略称。さまざまな分野で活躍する人を招き、アイディアなどを語ってもらうイベントを開くアメリカの非営利団体。

 

『家族のゆくえは金しだい』 信田さよ子著             (春秋社2016)

 

「家族のゆくえは金しだい」…まぁ、なんて直接的なタイトルだろう!

 

 やっぱり金か…。金に縁薄いと嘆く私は、一瞬たじろいでしまった。なぜなら私たちは昔から、「幸せはお金で買えない」とか「金で愛情は買えない」などと聞いて育ってきている。多くのテレビドラマや映画も、問題や苦難を「家族の絆」で力合わせて乗り越え、最後に幸せをつかんだり、理解し合うという場面を見せて終わるものが多い。

 

 ところが、本書の黄色の帯に、『〈愛と絆〉だけでは乗りきれません。持てる世代の親と、無職の子ども。…リアルな事例から現代日本を(略)』『出すべきか出さざるべきかそれが問題だ』『親子、夫婦関係を良好にするためにも、今ある関係から一歩踏み出すためにも、お金ほど大きな役割を果たすものはない』とあった。興味深い思いで読み始めた。

 

 著者は、母娘間にひそむ母の支配性や、その娘の苦しみについて多く手がけてきているが、この本では、あえて「家族とお金」をテーマにしている。家族の中の個々の問題を事例として示しながら、家族内の経済問題が多くの社会問題と関係していることを明確に捉えているので、フェミニズム視点から外せない。母娘問題、摂食障害、金を持つ世代と無職の子ども、依存症者を抱える家族、引きこもり、経済的DVなど、現状の特徴を捉えながら、そんな関係の中で「お金」をどう操作するのが良いのか、どう駆使するかを明らかにしていく。

 

 たとえば、現在は、親世代(戦後生まれ世代)のほうがはるかにお金を持っている。今の子ども世代にとっては、就労し続けることすら非常に厳しく、非正規雇用や契約社員では、とうてい親の年収を超えることはないだろう。ましてや将来、親の面倒をみたり親孝行をするのは相当難しい。すると、なかなか親から離れられず、親に依存するケースも増えている。さらには、「私(俺)の人生をだめにした」と親を責めあげ、暴力をふるい、金銭を要求するケースになると、親は心配になり、不安と恐怖感で相談される場面も実際、多々ある。

 

 親は子に自立してほしいと望む、できれば経済的自立を。引きこもりなどの具体例を出しながら、当事者と家族の中で、引きこもる子どもとどう距離をとるのか、金銭はどう渡したら良いのか、渡す金銭についてどうルール付けるかなど、話し合い方法も含めて信田氏流の具体的な展開もあって、今後の道筋を立てるのにとても役立つ。

 

 最近のニュースでは、日々、振り込め詐欺事件を報道している。少し前の「オレオレ詐欺」「母さん助けて詐欺」など、親や祖父母世代の家族愛を逆手に、詐欺師たちは、巧みに搾取していく。親たちは「出すべきか、出さざるべきか」と考える暇なくまんまと被害にあってしまっている。なんとも皮肉で悔しい話で腹が立ってしかたがない。 

 

 「無償の愛」や「母性愛」、「家族幻想」から脱却して、家族の適度な距離を確認しながら、当事者本人が望む人生を応援したいと強く思った一冊であった。                 (2017年4月)

 

介護をめぐる本・映画

 

 特集に合わせて、介護と家族についての本や映像に触れてみようと軽い気持ちでネット検索すると…出るわ、出るわ。『老いた親とは離れなさい』(坂岡洋子、朝日新聞出版)、『もう親を捨てるしかない 介護・葬式・遺産はいらない』(島田裕巳、幻冬舎新書)、『夫に死んでほしい妻たち』(小林美希、朝日新書)、『男という名の絶望 夫・父・息子』(奥田祥子、幻冬舎新書)など、タイトルを追うだけでこの社会問題の広さ・深さに圧倒される。

 

とりあえず著者に信頼性を感じる①『変わる家族と介護』春日キスヨ、講談社現代新書2010と、すぐ読めそうな②『ルポ 介護独身』(山村基毅、新潮新書2014、実用できそうな③『介護離職しない、させない』(和氣美枝、毎日新聞出版2016を入手。少し古いので見送ったが、『正々堂々がんばらない介護』(野原すみれ、海と月社)も気が軽くなるタイトルで、わが身に降りかかったら、これを読もう。

 

 いまや65歳以上は全人口の27.3%(総務省2016.9.15)。女性ではすでに30%を超え、3人に1人近くが高齢者となった。また、2025年には高齢者の5人に1人が認知症、その数700万人超と推計されているそうだ(厚労省)。元気に働くシニアがいる一方で、認知症でなくても介護が必要な人は75歳以上で3割を超す。この現実を抱えながら、平均世帯人数は2.49人(2014)。夫婦と子どもの世帯28.8%、単独27.1%、夫婦のみ23.3%。三世代は6.9%。家族で介護役、稼ぎ役などと分担できるメンバーはもはやいないのがフツーなのだ。

 

は、豊富な聞き取り事例とデータで、介護をめぐる現実が大きく変化してきたことが確認できる。「嫁」がおもな介護者である65歳以上は、男性わずか1.7%、女性33.9%という数字は意外に少ない。男性は子が5割、妻が4割、女性も夫の介護を受ける人が4割に迫り、男性も、妻や親の介護を担う人が増えている。関係や意識が変わっているのに、現実以上に当てにされてきた家族という「セーフティネット」。その上、一定の経済的安定を得て持ち家率も高い今の高齢者の陰で見えにくくされてきた次世代-不況下で未婚者も増え続ける将来の高齢者-(自分も含めて)の介護を、個人や家族で責任をもつことなど到底無理だろう。読むと、社会全体への指摘が浮かんでくる。

 

のルポは、独身の子が親を看るシングル介護を担う人たちを取材。介護を抱えたがゆえにしだいに孤立し結婚をあきらめ、歳を重ねていく「介護独身」とも呼ぶべき状況の人たちが増えている。

 

は、若くしてシングル介護・離職を経験した著者が自らの経験を生かして介護者支援の活動に乗り出した成果の1冊。「介護が始まったからといって、会社を辞める必要など、絶対にありません。…自分の人生を最優先で考えて構わない。介護のために、自分の仕事も人生もあきらめる必要などないと私は考えています」ときっぱり言い切ってくれるところがうれしい。「介護は情報戦」、「介護はたくさんのことを与えてくれ」「介護者も成長していく」といった指南も役に立ちそう。

しかし、介護というとどうしても大きな荷物を背負わされてしまうマイナスイメージが大きい。そうなると自分が介護される側に立ったとき、申し訳なさややるせなさでいっぱいになるような気がして切ない。できれば、楽しい老後、気楽な晩年を送りたいのは誰もの願いだろう。慰みはないかとレンタルDVDを借りて、『ペコロスの母に会いに行く』(監督・森崎東)『折り梅』(監督・松井久子)を観た。どちらもある意味理想的に過ぎるかもしれないが、認知症の母をここまで生き抜いた1人の女性として、その人生を尊重し理解しようとする者のまなざしで描かれていた。特に『折り梅』は嫁姑の介護問題を描きながら、むしろシスターズフッドを醸しだす作品でおすすめ。

                        【2016年10月】

 

Book Review

映画「キャロル」と「リリーのすべて」に描かれた多様な性と女性たちの選択

 

性の多様性をテーマにした二つの映画『キャロル』(2015)と『リリーのすべて』(2015)がほぼ同時期に公開されたので見比べてみた。LGBT1つのカテゴリーで語られることが多いが、同性愛と性別違和それぞれの当事者の生きづらさは大きく異なっていることが分かった。『キャロル』は『太陽がいっぱい』などで知られる作家パトリシア・ハイスミスの小説『The Price of Salt(1952)をもとにした作品である。1950年代ニューヨークで、女性2人が家族や世間の非難を浴びながらも愛を育みともに歩む道のりが描かれる。2人が闘うのは、レズビアンという理由で人権が侵害されてしまうホモフォビア社会である。『リリーのすべて』は実話をもとにしており、1930年代のコペンハーゲンとパリが舞台である。妻を愛していながらも性別違和で苦しみ、世界初の性別適合手術を受ける男性画家の“治療”の道のりが描かれる。彼が闘うのは、当時は性的倒錯や統合失調症の精神疾患と考えられていた“病”である。

 

 ここからは、それぞれの映画で描かれる女性たちの性について見ていきたい。『キャロル』では、離婚裁判中で裕福で優雅なキャロル(ケイト・ブランシェット)とデパート勤めのテレーズ(ルーニー・マーラ)は客と店員として出会い、惹かれ合い肉体関係を結ぶ。若いく美しいテレーズを誘い、高価なプレゼントを渡し、肉体を賛美するやり方は、まるで若い娘に溺れる中年男性みたいな姿でありとてもエロティックに描かれていて観ていた私は汗ばむほどだった。女性がもつ能動的で強い性のエネルギーがとても印象的だった。しかし、キャロルはその同性愛で一人娘の親権を巡る夫との争いで不利な立場に追いやられる。娘と再び一緒に暮らすためには離婚を断念して夫の元に帰るしかないのだが、苦悩の末、キャロルは娘を諦め恋人テレーズと共に暮らすこととを選ぶ。キャロルは妻、母ではなく性的な女性として生きるのである。

 

『リリーのすべて』は、今から80年以上も前に世界で初めて性別適合手術を受けたデンマーク人画家リリー・エルベの実話に基づいている。1930年、デンマーク。風景画家のアイナー・ヴェイナー(エディ・レッドメイン)は、肖像画家の妻ゲルダ(アリシア・ヴィキャンデル)と性的にも精神的にも結ばれた関係で妊娠を楽しみに暮らしていた。しかし、アイナーは女装がきっかけで秘めていた本来の自分“リリー”として生きる欲望が抑えられなくなり、性別適合手術に踏み切る。ゲルダは葛藤するが、リリーの希望を叶えるため力を尽くす。妻であること、母になることを諦めて、リリーを支え、晴れて膣をもったリリーが術後息を引き取るまで側にいるのだ。

性に忠実に行動することには勇気が必要であり、さまざまな困難を乗り越えなくてはならないというメッセージを、この春の二つの映画から受け取ったように思う。性に忠実であることは当たり前の権利なのに、その性が新しいものだったり珍しいものだったりすると社会の秩序を乱すとレッテルを貼ったり、病人として扱ったりしてきた歴史がある。そしてそれは今でも続いていると言わざるを得ない。どんどんと新しい性のあり方が報告される今日、妻、母、夫、父…といった従来の性別役割で説明しきれない多様な生き方を選ぶ人が増えている。少数派の人は社会に居場所がなくて自分を殺して苦しんでいたり、排除されたりしている。“いかに生きるか”という課題にクライエントと取り組むカウンセラーとして、性に正面から向き合っていきたい。

(2016年4月)

 

 

「婦人保護施設と売春・貧困・DV問題    ―女性支援の変遷と新たな展開―」    須藤八千代 宮本節子(2013年 明石書店)

 

 自治体などの女性相談で、心身が危険に曝されている女性とシェルターの利用など福祉の枠での保護という選択肢を検討することは少なくない。しかし実際に保護につながる女性は少ない。本書では、“空きがある”のに女性が入れない婦人保護施設と根拠法である売春防止法が抱える性暴力被害者排除という形のハラスメント問題について、施設の運営者、支援員、福祉領域の研究者が様々な立場から論じている。

 

 まず、第1章では、婦人保護施設は「売春防止法(以下「売防法」)」(1956)が根拠法だが、2008年現在在所率は40.9%(利用者569人)と低く、婦人保護施設としての存在意義が問われる状態であることが問題提起される。性産業での搾取や性暴力、DV被害で生活が立ち行かなくなる女性は決して少なくない中、売防法で“社会の風紀を乱す”と取り締まられた女性とDV防止法で“被害者”とされた女性を同じ“要保護女子”として保護する婦人保護施設が内包する矛盾が指摘される。第2章では、都内5施設の実態調査の結果が報告されている。調査は、売防法の持つ女性差別から脱皮するような実践が今の婦人保護施設には求められていることを明らかにする。第3章では、牧師・深津文雄が1965年に千葉・館山に設立した「かにた婦人の村」の歴史が紹介される。牧師らしくない牧師が“売春婦”の更生に“エゴイスティックな”動機からのめりこんだライフストーリーが紹介される。第4章では、現在都内で婦人保護施設の施設長を務める2人の女性が、前述した婦人保護施設の女性差別に挑戦する姿が描かれる。発足当時の「コントロールしなければならない、仕方のない対象者」という発想による支援への抵抗が明かされる。第5章では、新人の支援員が、支援員と利用者の間のパワーの問題に悩みながら職業アイデンティティを確立していくプロセスが描かれる。第6章は、大阪府立女性支援センターからの現状報告である。中でも指定管理制度の導入という行政の“効率化”による現場の混乱の報告は特に重い。第7章では、最近の女性ホームレスによる婦人保護施設利用の増加について報告されている。性暴力被害や生活困窮で安心・安全な住居がない女性は男性ほど目立たないものの多く、婦人保護施設利用のニーズは潜在的に大きいのに、婦人保護施設は6割が空きという矛盾に迫る。本当に保護を必要とする女性が婦人保護施設に措置されるようシステムを改善するべきとの指摘がなされる。第8章では、開発途上国から“人身取引”でカンボジア、フィリピン、タイ、インドネシア、中国などから連れてこられ強制労働や性的搾取の被害に遭う女性たちの保護が不十分であることを指摘する。日本政府は被害者を本国に送還する形を基本としており、当事者の意向にかかわらず婦人保護施設での保護に至るケースは稀なのである。第9章では、現代の“駆け込み寺”としての婦人保護施設は、規範からの逸脱者の保護という名のもとに社会から排除する機能をもつと指摘する。ここでの“支援”はある規範に従う女性を作る抑圧装置になりかねない。保護という言葉が本来もつ“自由への解放”に向けたシステムの変革が提案される。

 

 暴力に満ちた生活から逃げたい女性たちが安全に暮らせる公的施設はあるのに、多くの女性たちが保護を諦めざるを得ない状況は法律の世界に温存されるハラスメント体質を反映している。FCのカウンセラーは、ジェンダーの視点をもつ有能なソーシャルワーカーと連携して女性たちの支援にあたる必要があると感じた。〈2015年10月〉

 

「『モラル・ハラスメント』のすべてー夫の支配から逃れるための実践ガイド」 本田りえ(臨床心理士)露木肇子(弁護士)熊谷早智子(当事者)     (2013年6月 講談社)

 

「これって、モラルハラスメントにあたるでしょうか?」 最近、女性相談の中で尋ねられる事が多くなった。

あるタレント女性が夫からのモラルハラスメントを理由に離婚問題へと、メディアで報道されてから、DVにおける精神的暴力を「モラルハラスメント」という言葉に置き換えてみる事で、被害にあっている女性達が相談しやすくなったという効果に繋がったようだ。

本書の、第1部は【モラルハラスメントの基礎知識】として、モラハラって何? 加害者について、そして、被害者や子どもへの影響など、暴力の被害について「心理サポート編」として書かれている。

モラハラ加害者の特徴的な行動は、計算高く自己中心的、他人の評価をとても気にする、説明なしに無視し続ける、すれ違いざまに捨て台詞を吐く、マイルールを持つ、ダブルバインドで縛り付ける、外ではめっぽう優しい、等、読みやすくまとめられている。

家庭という密室で、夫からの巧妙で執拗ないやがらせが繰り返され、それは支配とコントロールという見えない力関係の中で、被害者は次第に自分らしさを失い、不安定で逃げ場のない精神状態に追い込まれていく。孤立、恐怖の渦の中で無力化される。要因を、夫や加害者の精神的疾患やパーソナリティの問題かもしれない、又、別な問題もあるかもしれないとしている。

フェミカン視点での、社会構造の背景にある「良妻賢母」や「内助の功」などのジェンダーの縛りについては、残念ながら触れられていない。被害者女性は、自身の努力不足から相手を怒らせたと思い込んでしまう事が多く、さらには、親族や回りの人からも理解されない事もあると、ますます自己評価や自尊心が低くなってしまう事が少なくない。そんな場合は、相談現場でのジェンダーを取り入れた心理サポートが、とても大切になってくる。

第2部【モラルハラスメントからの脱出】では、弁護士が、「法的サポート編」として、モラハラから脱出するまでの流れ(別居、調停、離婚)を詳細に説明している。さらに離婚現場のいろいろな疑問をQAにして、難しい法律知識をわかりやすくしている。

自分の行為を矮小化して、正当化するモラハラ加害者から被害者を守る為にも、フェミ視点を含めた丁寧な心理サポートと、わかりやすい法的サポートが連携しているシステム作りが望ましいと、つくづく思いながら読んだ一冊だった。             〈2015年10月〉

 

 

<正常>を救え アレン・フランシス著 大野裕監修 青木創訳(講談社 2013年発行)

 

 なんとインパクトの強いタイトルだろう。<正常>を何から救うのだろうか?心理臨床の友人から勧められ、手に取った。400余ページのボリュームに抵抗感があったが、日本における認知行動療法の一人者である大野裕の日本語序文と筆者のまえがきに、読みたいと胸躍るものを感じた。

 

 筆者のアレン・フランシスはアメリカ精神医学学会の『精神疾患の診断と統計マニュアル』(DSM)の作成に20年間関わり、1994年に発表された第四版(DSM-4)の作成委員長であった。彼はDSMの落とし穴や改正にまつわるリスクを警戒していたが、2013年に発表されたDSM-5について、その強い危機感を覚えて、この本を出版した。強い意志と情熱をもって書かれている。

 

 彼が本書で意図したことは、まず一つには、DSM-5の影響で過剰な診断をされ、多量な薬を処方される。そのことによる薬への依存、副作用への警鐘である。現にアメリカの人口の66%が処方薬に依存しているという。診断の氾濫は個人の健康、社会の健康も損ないかねないと彼はいう。例えば、まだ認知症でなくとも、ちょっとした物忘れも「軽度認知障がい」と診断名がつき、投薬される恐れがある。また、日常生活の普通の心配事であってもそれが頭から離れなければ、「全般性不安障がい」と診断され、投薬される恐れがある。他にも、児童の向精神薬づけ、過食性障がいなどいくつもの例を挙げている。

 

 その過剰服用の背景にあるもの・・・「製薬企業が医療企業を乗っ取り、患者よりも金儲けを優先して、過剰な診断、過剰な検査、過剰な治療を激化している」と訴えている。

 

 二つ目には「生きている場、避けられない日々の問題には自然の回復力と時間の治癒力によって解決するのが最適」とのメッセージがある。その人のもっている回復力を引き出せるように薬を使っていくべきだと訴えている。一人ひとりがその人らしく生きていくための助けとしての精神科医療のあるべき姿を示そうとしている。「精神医学の最悪と最良」の章では自身の若かりし頃の失敗を事例も挙げながら、正しい診断の必要性と「病気らしきものではなく、本来は正常なものを人々の中に常にさがすべきだ」と強調している。精神科医との十分な話し合い、カウンセリングや認知行動療法などの心理的支援、精神科の診断と治療に対して「賢い消費者」になることなど、総合的な広い視野にたって見据えている。

 

 日本でも近年、ADHD,アスペルガー障がい、適応障がいなどの診断名がよく聞かれる。書店の棚にも関連する書籍が増え、研究会でも耳にすることが多い。日本の医療も薬物中心となっていると聞く。DSM-5は日本にどのような影響を及ぼすのだろうか?

 

 カウンセリングや生活療法的なものが増えれば、薬漬けにならず自分の能力をより発揮できるようになり、自尊心が高まり良循環に向かっていくと精神科医から聞いたことがある。確かにそうだと思う。自分にあった養生、専門家や家族、地域、社会資源など総合的なサポートを通してその人らしい生き方ができていくのは確かだ。

 

 私がこの本で気に入ったことは生き方を問うていることである。希望が感じられた。

 

また、精神科の歴史や時代の流行、現状と未来、その背後にあるものが書かれているので、広い視野をもつことができた。相談現場では、このような背景があるだろうことを踏まえ、より丁寧に対応できるような気がする。<正常>を救え、とはぴったりのタイトルであった。

 

〈2014年10月)                                                                

 

女性アスリートは何を乗り越えてきたのか 読売新聞運動部著 (中公新書ラクレ2013年)

 

 オリンピックのテレビ中継を見ていると、男子と同じ種目の女子の競技が必ずあって、ウン十年前、「女子には過酷すぎる」と女子マラソンのオリンピック種目採用が反対されたなんて、嘘みたいだ。

 

本書はオリンピックに出場するようなレベルの女性アスリートが女性ならではの数々の困難を乗り越え、(困難は今も続いているが)メダル数でも男子を上回るかも、と言う成果を上げている状況を、女子選手へのインタビューをメインに報告している。

 

女性アスリートが抱える困難は、ほんとに大変だ、まず月経がある。激しい練習や体重制限で、長期の無月経やそれに伴う骨粗鬆症が起きたり、月経周期に伴う心身の変化に対応しなくてはならない。一方情報は少なく、婦人科系の病気はカムアウトしにくい。女性の指導者は二割に満たず、練習は辛くて当たり前という考え方の中、専門家に相談できる環境がない。

 

さらに大きなハードルは出産と育児だ。そもそもそれを経て、第一線のアスリートを続けようとする人はごく少数だ。出産による体の変化をスポーツ選手としての体に戻し、その上で競技と育児の両立を図るのはとても難しい。しかしここで語る女性たちは、驚く程前向きだ。ハンデを受け止め、それを前向きのパワーに捉え直している。子どもを持つことで、かえって自分が精神的に強くなったと語る選手が多い。

 

去年大きく報道された女子柔道選手へのパワハラ問題にも一章を当てて経緯を追っている。告発した選手たちやそれをサポートした女性指導者が何度も抗議しているのは、体罰やパワハラは監督やコーチ個人の問題ではなくて、全日本柔道連盟組織全体の体質であることや、さらに異議申し立てをしてもJOCなどその上の組織でうやむやにされてしまったことだ。マスコミが大きく報道して、やっと外部の調査が入り、全柔連の体質が批判され、具体的な処分も行われた。それらを受けて最後は告発した選手たちが「丁寧な調査を行われ、区切りが付けられた」、として「お礼」を発表し、一応の終結となっている。

 

私はとてもスポーツ音痴で、その上スポーツマインドに偏見があり、コーチの怒鳴り声を聞くのも、選手がそれに必ず「はい!ありがとうございます!!」と答えるのも馴染めない。指導者のシゴキが当然で、それに耐える根性があってこそ一流になれるという考えも受けつけられない。でもこれが、スポーツや職人の世界では一般的なことで、その世界の人にとっては、愛情や連帯感の現れと信じられているのも否定できない。少し話はずれるが、私のところにカウンセリングに来た若いDVの夫に、彼の怒鳴り声がどれほど妻を怯えさせるのかわかってもらうのに、とても大変だった体験がある。(妻との関係を修復したいとわざわざカウンセリングに通ってくるのだから、好感の持てる人だったが)彼は自分が学校や職場でそうやって育てられ、それがあたりまえで、むしろ自分が鍛えられてきたと考えていたから。

 

では一方で、女性ではないアスリートは体調がいつも安定していつのだろうか?怪我や体調不良、家族の事情などで試合や練習をチームメイトと同じようにこなせないことをオープンにできているのか?不透明な代表選考や不公平な処遇の理不尽さに怒りが爆発しないのか?こちらは黙ってグッと我慢する、という「男らしさ圧力」が働いていると思う。女性アスリートにとってそれを受け入れるには、心身の負担が男性にも増して大きい。だからこそ本書で扱われる問題が、よりはっきり出てくるのだと思う。

こうして考えてみると、スポーツ界で起きていることは、社会のジェンダー問題とパラレルなのですね。本書を読んで改めて感じた。

(2014年4月) 

 

 

         

ガール 奥田英朗著 (講談社文庫 2009年)

 読んでいて思わずフッと笑ってしまう。そんな等身大の以下の女性5人が描かれている短編小説です。

 

【ストーリー① 武田聖子】管理職になった聖子は、部下への接し方で戸惑う。社内での派閥や女性が上司になったことをやっかみ陰湿な嫌がらせをする部下へ賭けを仕掛ける。そして「女と仕事をするのが嫌なら相撲協会にでも勤めるといいよ。どこへ行っても女はいるからね。女の子じゃない女がね」と、タンカを切る。その台詞で胸がすく思いがした。イザとなったら女は強い。キャリアを積みながら夫との関係や子どもをどうするか…と悩み立ち止まり、でもまた一歩先に進む女性の姿が描かれている。

【ストーリー② 石原ゆかり】独身のゆかりは、マンションの購入を検討し始める。将来の資金計画を検討する中から伺える、長期的な収入の確保に伴う仕事へのスタンス。初めはモデルルームを見たことで無理をしても手に入れたいと欲した物件だったが、背伸びをしない現実的な選択への葛藤が身近に感じられた。

【ストーリー③ 滝川由紀子】広告代理店に務める由紀子には、ある仕事が任される。今後のキャリアに迷いを感じていたのだが、女性がどうしたら輝けるのか、輝くとはどういうことなのか。 女の価値は若さなの? 20歳代の頃は周囲の目はチヤホヤしていた。しかし、30歳代を過ぎると、もうガールでいられない。

なら…任された仕事から、先輩の仕事の進め方を参考にし、自分なりにしなやかに仕事を成功させた。今まではと違った姿勢で仕事を楽しむことに気付いていく様子が力強かった。

【ストーリー④ 平井孝子】子どもが小学生になり、事務職から元々所属していた部署への異動を申し出た孝子は、シングルマザーだからと周囲に同情される仕事の進め方を嫌った。仕事に家庭の事情を持ち込みたくないと意識していた。

そんな中、同期の独身女性に自分の企画を横取りされた孝子は、子どもがいること=錦の美旗を相手に見せた。このことで後味の悪い思いが残るが。率直に「ごめんなさい」と潔く謝る。人の幸せは物差しを当てること自体が不遜だと、根底のメッセージが書かれている。

【ストーリー⑤ 小坂容子】ひと回り下の新入社員への指導担当になった容子は、新入社員に興味を持つ。長身でルックスも良い新入社員は容子以外の女子社員の興味の的となる。周囲の女子社員をかわしながら、一人前になれるよう教育指導をしていく。ふと、等身大の出会いがしたいと一歩踏み出す姿が描かれている。

 

映画『ガール』

2012516日東宝系でロードショーされた作品。

原作の『ガール』を基に、5人の女性の生き方が拮抗する形で映像化されている。

内容は、原作本に忠実なストーリー展開だった。オムニバス形式でないところが、日常の雑然としたありようがよりリアルに感じられた。ストーリーは原作本で紹介しているので割愛します。

今回、原作を読み、映画を見て、とても勇気づけられたため書評の題材として選定しました。

様々な状況にある女性が描かれていたことも、一昔前とは違うと感じているところです。

 登場人物は皆、仕事と自分の生き方の狭間で現実的な問題と向き合っている女性たちでした。

ストーリーの共通点は、自分自身で選択肢を持ち迷う過程も大事にしながら、決断して懸命に生きて前に進もうとする姿でした。そして、長期的にライフサイクルを捉え、キャリアを含めた人生設計をする視点を持つということを強く感じました。

女性の生き方も多様化しています。それを良しとする社会の流れを作るための一石を投じる作品だと思います。

(2103年10月)            

 

 

 

女性たちが変えたDV法 全国シェルターネット 遠藤智子編(新水社 2006年)+デートDV 遠藤智子著(マガジンハウス 2007年)

 

「女性たちが変えたDV法」~待望の立法化から改正へ~

 

2007年に書かれた「デートDV」は今から6年前の発行になる。同じ著者・編者で「女性たちが変えたDV法」は2006年に作られている。この2冊は今読んでも少しも古さを感じさせないのが不思議だ。

 

振り返ってみれば「DV防止法」が立法化されたのは2001年である。やっと法律になった安堵感と期待感でとてもうれしかったことを覚えている。先進国としては非常に遅い成立ではあったが、これまで数々の暴力被害当事者の話を聴いてきた私たちにとっては法律により当事者の安心・安全が守られることは悲願に近いものだった。

 

しかしことはそう簡単にはいかなかった。この法律を直接使う当事者の相談を受けていると、この法律だけではどうにもできないことも多々あることがわかってきた。加害者の行為から当事者を守りきれない状況が明確になり、3年後の改正に向けて動かなければならないことを私たちは知ることになる。

 

2004年の第1回改正までのこのDV法改正にかけた女性たちの活動と超党派の女性議員たちの関わりが克明に記されているのが、「女性たちが変えたDV法」である。「私たちの役に立つ法律に」が形になっていくさまは、望むことの立法化は手が届かないところにあるわけではないのだということが改めてよくわかり、諦めないことの大切さを教えられる。

 

「デートDV」~ジェンダーからの解放~

 

法律という器はできた。しかもDV相談の件数は年々増えている。これはDVが一般に認知された結果ともいえるが、件数が減っていないのも事実だろう。DVの原因はジェンダーであり、立場上弱い相手へのコントロールである。日本社会はジェンダー社会であり男性の暴力に対しては寛容である。こうした我が国の社会現状を踏まえ私たちが多くのDV相談から得たことは、ジェンダーにとらわれの少ない幼少期からの教育の必要性であった。

 

「デートDV」はDV法改正に中心的にかかわった著者だからこその力作といえる。1章から5章までで、全体的に非常に平易な言葉でわかりやすく書かれている。前半は「デートDVの現状と特徴」として、友人関係や携帯電話のチエック、家や学校への送迎、一日に数多くの電話やメールなど、一見「愛を装う」相手の行動を見誤らないこと、また愛情と殴ることは一切関わりがないことなので誤解しないように、などを事例から丁寧に解き明かしてくれる。後半はDV予備軍を見抜くためのチエックリストや予防教育、デートDVから逃れる方法など、すぐに行動に結びつけ実行できそうなことが盛り沢山で頷きながら読んでしまう。

 

相談に携わるものとしては、やはり予防教育に力をそそぎたい。なぜなら前述したように現在の男性による暴力容認社会の中では、義務教育の中に人権教育の位置付けで、お互いを尊重し合えるコミュニケーションスキルや、自分らしく生きるためにジェンダーバイアスに気づく等のプログラムを組みたいと思うからだ。本著には実際にそのような教育を授業に取り入れている地方自治体の様子が具体的に生き生きと書かれている。

中学や高校・大学生はもちろん、先生や思春期の子供を持つご両親にもぜひ参考図書として読んでいただきたい一冊である。

(2013年4月)

 

 

「子育て支援が親をダメにする」なんて言わ せない   大日向雅美著(岩波書店 2005年)

 

本書は、母性愛神話からの女性の解放を長年にわたって主張してきた発達心理学・ジェンダー論研究者であり、子育て広場の施設長でもある大日向氏による、支援者の姿勢についての問題提起である。支援される女性、支援者双方からの現場の生の声に丁寧に耳を傾け展開する子育て支援肯定論は当事者双方にとってエンパワメントになると感じた。

 

本書は2部構成となっており、第1部「子育て支援はだれのため?なんのため?」では、本来子育て支援の一番の支援対象であるはずの女性の声が支援者に届いていない問題が指摘されている。子育て支援はそもそもどういう思いで始まったのか、原点に戻ってみようと大日向氏は訴える。女性が社会参加していくために子育ての大変さを社会のみんなで負担していこうというのが子育て支援の始まり。少子化対策や親教育はメインの目的ではない。つまり、子育ては大変という女性の本音を批判しないで受け止めるという姿勢だった。しかし、「少子化は止まらないではないか!」、「こんな親まで支援をしなくてはいけないの?」といった疑問の声が支援者側からささやかれるようになっていることに大日向氏は危機感を抱く。また、支援される女性と支援者側の信頼関係の欠如からくるコミュニケーション不足によって、支援される女性たちは母としての未熟さを批判されるのではないかと怯え、支援者たちの不満は膨らむばかりだという。本来、女性の味方のはずの支援者が「最近の若い女性は・・・」という従来の女性批判を思わず口にしてしまうという目をそらしたくなる現実にショックを受ける。しかし、同時にこの矛盾にきちんと向き合う大日向氏の姿勢に勇気づけられる。

 

第2部「子育て・家族支援の現場から」は、大日向氏が2003年から関わる港区との共同事業である子育て広場「あい・ぽーと」の活動から第1章の問題解決の模索が行われる。「あい・ぽーと」では子育て広場と一時保育で親を支援する。ここでは、母親を一人の大人であると位置づける。ぬいぐるみやパステルカラーであふれた子ども主役の場ではなく、落ち着いた無地の色合いの親子のための場を準備した。長年、女性の声に耳を傾けてきた大日向氏ならではのアイデアである。知らず知らずのうちに支援者が上から目線で子供相手のような口調で母親に語りかけてしまうこと、母親へのコミュニケーション講座でキラキラ星の音楽に合わせて輪になることを何の疑問ももたずに強いてしまうこと。これらの支援で大人としての母親の気持ちが傷つくのを見てきたからこそ配慮していることがいくつもある。「あい・ぽーと」では母親の社会参加を二段階で応援する。まず、家から一歩外に出て子育て広場に行くのが第一段階で、第二段階は資格取得のための学校通いや仕事復帰である。また、母親がリフレッシュすることを目的とする一時保育では、理由は聞かず、「たとえパチンコに行っても」預かるという方針にした。その他、元気溌剌バギーママ、シングルファザーなど、従来の弱り切った被支援者のイメージとはかけ離れた多様化した親に向き合うとき、従来の「支援」の固定観念にとらわれている自分自身にはっと気づきながら日々軌道修正をしているのだという。

子育て支援は「この女性を助ける意味は何か?」という社会からの、そして自分の内面からの声に一つひとつ答えながら前に進んでいく活動であり、その点でフェミニスト・カウンセリングの方向性と一致していると痛感した。フェミニスト・カウンセリングの実践においても、支援者自身がうっかりすると女性批判にまわってしまう「罠」といつも背中合わせであることを忘れてはならないだろう。

                           (2012年10月)